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静岡地方裁判所 昭和44年(た)1号 決定 1977年3月11日

再審請求人

赤堀政夫

昭和四年五月一八日生

右の者より同人に対する強姦致傷・殺人被告事件につき、当裁判所が昭和三三年五月二三日言渡し(静岡地方裁判所昭和二九年(わ)第一五六号事件以下原一審とよぶ)昭和三五年一二月一五日上告棄却(判決訂正申立昭和三六年一月二六日棄却)により確定した有罪の判決(以下原確定判決とよぶ)に対し適法な再審の申立があつたので、当裁判所は請求人・弁護人及び検察官の意見を聴き次のとおり決定する。

主文

本件再審請求を棄却する。

理由

第一本件請求の趣旨及び理由は、記録に編綴されている請求人名義の昭和四四年五月九日付再審申立書、及び、弁護人名義の昭和四四年七月二四日付再審請求理由書同年一二月八日付再審請求理由補充書(一)、昭和四五年九月二九日付同(二)、同年一二月二八日付同(三)、同四六年一〇月一六日付同(四)、同四八年六月一二日付同、同五一年六月三〇日付同、各記載のとおりであるのでこれを引用するが、要するに、請求人は強姦致傷・殺人事件につき死刑を言渡されたが、請求人は無実であり、無罪を言渡すべき明らかな証拠(以下「明白な証拠」とよぶ)を新たに発見した(以下「新証拠」とよぶ)から再審開始の決定を求めるというのであり、原確定判決を論難し、証拠として芹田孝一作成の外川神社周辺見取図一枚及び同人撮影の外川神社周辺の写真一一葉、東京弁護士会長宛の照会請求書及び東京弁護士会からの報告書、金谷民生寮関係の写真二葉、山城多三郎、草山テイの各供述録取書、金谷民生寮の「一時保護取扱記録」の写、北条春光作成の鑑定書と題する書面、太田伸一郎作成の昭和四六年五月一二日付、同四七年四月六日付各「鑑定書」と題する書面、上田政雄作成の「鑑定書」と題する書面、農林省茶業試験場作成の昭和二九年二月気象表(写)、同三月気象表(写)、新聞(写)八葉を提出し、検察官は鑑定人井上剛作成の鑑定書を提出した。

なお、弁護人は、昭和五一年一一月三〇日付「再審請求理由補充並びに意見書」なる書面を提出し、これには時刻表、運賃表、小鍛治格宛請求人の手紙、仙石原観測所昭和二九年三月月表、パンくずをもらつたと思われる家付近の写真二葉(以上いずれも各写)、観測原簿拡大複写(東京、横浜、三島、静岡各関係分)、臨床心理学研究一四巻二号、赤堀裁判とその精神鑑定書における差別性についての意見書が添付されている。また、その後上田政雄の昭和五一年一一月三一日なる日付の鑑定書及び同年一二月一〇日付鑑定書訂正追加という書面を提出してきた。これらは、当裁判所が弁護人の希望通りの準備期間を与え、最終的に期限を昭和五一年六月末日と定め、それまでにすべての申出をするよう訴訟指揮をし、しかもその後、所要の事実取調べを終了したうえ、昭和五一年一〇月二一日事実の取調べ終結宣言をしたその後に提出されたものであるが、職権で採り上げて合わせて検討することとする。その請求の趣旨理由は前記と同様である。

なお、弁護人は、昭和五二月一九日、同日付再審請求理由補充書と題する書面を提出してきたが、これは、右記の経緯を経て昭和五一年一〇月二一日事実の取調べ終結宣言をした後に提出されたものであるうえに、その内容は当裁判所において昭和五二年一月一一日行われた弁護人の口頭による意見陳述の一部を書面化したものであるというのであるから、再審請求理由補充書としなくて、単に右趣旨において弁護人の意見として取扱うこととした。

また、昭和四四年七月二四日付再審請求理由書中には証人松浦武志、同小山睦子の各証言は偽証であり、公訴時効が完成し偽証罪の確定判決を得ることができない旨の記載があるが、弁護人が、これを刑事訴訟法四三五条二号の再審理由として主張するものでないことは、昭和四八年六月一二日に行われた準備手続における弁護人の釈明、昭和四八年六月一二日付再審理由補充書の記載及び昭和五二年一月一一日行われた口頭による弁護人の意見陳述の全趣旨より明らかである。

第二ところで、原確定判決によると、

(一)  請求人が、本件再審請求の対象とする右確定判決の有罪認定事実の骨子は、「請求人赤堀政夫は、昭和二九年三月一〇日静岡県榛原郡初倉村坂本字沼伏原四九二五番地の山林内(以下犯行地という)において甲野花子(当時六才三ケ月)の上に乗りかかつて姦淫し、その結果同女に外陰部裂創等の傷害を負わせたが、同女がなおも泣き叫んで抵抗するので……同女を殺害し併せて犯行の発覚を免れようと決意し、附近にあつた拳大の変形三角形の石(昭和二九年領第一一二号の一〇)を右手に持つて、同女の胸部を数回強打したうえ、両手で同女の頸部を強く締めつけ同女を窒息死させた」という事実である。

(二)  そして、これを認めた証拠として原確定判決が証拠欄に掲げるものを、弁護人佐藤久の昭和五二年一月一一日に口頭でなした意見をも参照して分類し、その意義を原確定記録によつて検討すると、その要点は、

(A)  司法警察員の作成した昭和二九年三月一三日付検証調書、医師鈴木完夫作成の昭和二九年三月二五日付鑑定書で「甲野花子の死体が昭和二九年三月一三日犯行地で発見され、同女が扼頸されて窒息死していたこと、陰部に高度の損傷を受け、腟内に指或いは陰茎様の細長い鈍器を無理にそう入されていること、左胸部に鈍器によるものと認められる損傷のあること」(甲野花子にこのような被害を与えた行為を以下本件犯行とよぶ)

(B)  拳大変形三角型石一個(昭和二九年領第一一二号の一〇)(以下本件「石」とよぶ)、司法警察員作成の昭和二九年六月一日付実況見分調書、及び、鑑定人古畑種基の原一審公判廷(第二一回)における供述(以下「古畑鑑定証言」という)により、「甲野花子の死体のあつた付近で、右本件『石』が発見され、甲野花子の左胸部の損傷が右『石』で生ぜしめ得ること、しかも甲野花子の左胸部の傷は生前に受傷したものであること、」

(C1) 原一審第二回公判調書中証人鈴木鉄蔵、同中野ナツの各供述記載部分、同第三回公判調書中証人太田原ます子の供述記載部分、同第九回公判調書中証人太田原松雄の供述記載部分、及び原一審裁判所の証人中野ナツに対する尋問調書によつて、「右太田原松雄、中野ナツ、鈴木鉄蔵らが、請求人に似ている男(太田原松雄は請求人であるとすら供述している。)が、甲野花子を快林寺境内より連れ出し、犯行地の方へいくのを目撃していること。」

(C2) 原一審第二回公判調書中証人松野みつの供述記載部分及び原一審裁判所の証人松野みつ、同橋本秀雄、同橋本すえに対する各尋問調書及び原一審裁判所が昭和二九年一二月一五日行つた検証、受命裁判官が昭和三一年一一月一六日行つた検証の各検証調書で「犯人の歩いた経路」

(D)  被告人(=請求人)の検察官に対する第一ないし第三回、第五、六回供述調書及び司法警察員に対する昭和二九年五月三〇日、同月三一日(原記録五六五丁以下の分)同年六月一日、同月二日、同月五日、同月六日、同月七日、同月八日(原記録六三八丁以下の分)付各供述調書並に裁判官の被告人(=請求人)に対する勾留質問調書で「請求人が右甲野花子を快林寺境内より犯行地へ連れ出したうえ、同女を強姦し、次いで本件『石』でその左胸部を数回強打し、最後に同女を扼殺したことを自白していること。」

(E)  押収してある昭和二九年領第一一二号の一ないし九及び一一ないし一三の証拠物で「甲野花子及び請求人の着衣等の状況」

というのであり、

これらを総合して右(一)のように罪となるべき事実を認めたものと解されるのである。

(三)  そして更に、請求人のアリバイの主張に対し、証人松浦武志同小山睦子の各証言を信用し、その裏づけとなる証拠と相まつて、請求人は昭和二九年三月七日ないし九日頃は島田市またはその近郊にいたものと判断し、請求人がアリバイとして述べている事実のうちには、同人がいつの日かに直接体験した事実もあると考えざるを得ないか、それを、本件甲野花子に対する犯行を請求人がするのは不可能であるとするような、同人の供述した日時に結びつけるに足るものがない、として、これを排斥していることが明らかである。

第三よつて次に、再審請求人側で無罪を言渡すべき明らかな新たな証拠即ち「明白な新証拠」として提出した証拠を再審開始の理由となるか、否か、という観点から逐一検討することとする。

一東京弁護士会長宛の照会請求書及び東京弁護士会からの報告書について、

右証拠は、東京高等裁判所昭和三三年(う)第一二二二号事件(以下原二審とよぶ)判決の妙善寺と神奈川県大磯町高麗五三三番地の稲荷神社の距離を六、四キロメートルとする認定が誤りであると攻撃するものであつて、原確定判決を対象とするものでなく、不適法であるばかりか、到底原確定判決の認定を動かし得るものではない。

二北条春光作成の鑑定書と題する書面、太田伸一郎作成の昭和四六年五月一二日付、同四七年四月六日付各「鑑定書」と題する書面、上田政雄作成の昭和四九年一一月一日付「鑑定書」と題する書面(以上を、以下「新鑑定」とよび、太田伸一郎の鑑定書のみについては太田「新鑑定」、上田政雄の鑑定書のみについては上田「新鑑定」とよぶ)について、

(Ⅰ) これらの証拠が鑑定の方法、採用した経験則等よりみて、「新証拠」であることは肯定することができる。ところで、再審請求理由がこの「新鑑定」によつて主張するところは、これら「新鑑定」によつて、

1  被害者の陰部損傷の成傷用器、

2  被害者の胸部損傷の成傷用器、

3  被害者の受けた犯行の順序

の三点を各検討したうえで、結局、被害者甲野花子の死体の状況は、請求人が前記第二(二)(D)掲記の各供述調書や勾留質問調書で述べているところとは異る、と断定し、右各供述調書や勾留質問調書における供述は信憑できず、「新鑑定」は請求人に無罪を言渡すべき「明白な証拠」である、というに帰する。

当裁判所は、右各鑑定の趣旨を明らかにし、再審請求理由の有無を明らかにするため、太田伸一郎、上田政雄の両名を各証人兼鑑定人として尋問し(以下「新鑑定証言」とよび、太田伸一郎のみの分は太田「新鑑定証言」上田政雄の分のみの時は上田「新鑑定証言」とよぶ)、また、これとの関連において、鈴木完夫を証人兼鑑定人として取調べたので、これらをも参照して、次に順次所論を検討することとする。

(一) 陰部損傷の成傷用器について、

所論は、「新鑑定」によつて、請求人がその前記各供述調書において述べているような甲野花子の陰部に陰茎を半分位入れただけでは、同女の陰部にあつたような傷害は起きず、請求人のこの点に関する供述は虚偽であることが明らかになつた。というのである。

上田「新鑑定」太田「新鑑定」北条「新鑑定」も記しているとおり、甲野花子の陰部にあつた傷が、請求人が右各供述調書中の中で司法警察員や検察官に供述しているように、自己の陰茎を半分位そう入したというだけにしては余りに損傷の程度がひどいことは、所論指摘のとおりであり、右「新鑑定」がいうとおり手指或は棒のような固い鈍器による損傷が加えられたり、動物による損傷の可能性のあることも、否定することはできない。しかし、右各「新鑑定」とも、二五才の男子が六才三ケ月の女児の陰部に陰茎をそう入することは非常に困難であるとは言つているが、絶対に不可能であるとまでは断定していないのである。もち論そう入した場合には女児の陰部に相当の外傷を生ずることもその指摘するとおりであろう。そして、現に、甲野花子の死体の陰部腟壁は腟穹隆部まで完全に裂創があり、外陰部は幼児手掌大に開口したままになつていたのである。もち論、これだけによつて甲野花子の陰部に陰茎がそう入されたか否かまで確定することはできない。或は何らか他の鈍器がそう入されたのかも分らない。しかし、右「新鑑定」によつても本件において、陰茎がそう入された可能性自体を否定することはできないと考える。むしろ、当裁判所で鈴木完夫が証人兼鑑定人として、腟壁損傷の成傷兇器について「私はこれは比較的やわらかいものだという考えを持つています。なぜかというと木なんかの場合には中の裂創の所へひつかき傷とか、そういうものができやすいんです。直線状のすうーとした裂創というのは、なかなか。これは大陰唇の表皮がむけちやつているわけです。そうすると、こういう所を硬いものでやりますと、局部的な創しかできません、やわらかいものでやりますと総体を巻きこむような形になつてくるんです。だから私は比較的やわらかいものだというふうに。」と供述しているところを参照すると腟壁は陰茎によつて損傷した可能性の方が大きいと考える。また腟壁を損傷したものが陰茎でない他の鈍器であつたとしても、その後に陰茎がそう入されてはいない、とは言い得ない。所詮、「新鑑定」は「新鑑定証言」を加えても上記の点からみて、請求人の司法警察員や検察官に対する前記供述調書で述べている「甲野花子の陰部にその陰茎を半分程そう入した。」という供述が事実に反する、ということはできない。なお、所論は、上田「新鑑定証言」に依拠して、甲野花子の死体発見時の姿勢は強姦姿勢でなく同女は強姦されていないと主張するが、これは上田「新鑑定」にその記載なく、右上田「新鑑定証言」において漸く言われたところであるところ、直接同女の死体を検分した鈴木完夫鑑定人の鑑定書に「一見して所謂強姦姿勢である」と記載されており、死体の姿勢、その位置の点からみて陰部に陰茎を半分そう入することはできない、とはいい切れないと考える。

もち論、請求人のこの甲野花子の陰部に対する所為に関する司法警察員や検察官に対する供述が、すべてをそのまま供述しているものである、というわけではない。手指等陰茎以外の物によつても、同女の陰部を損傷した疑は非常に濃い。所論も甲野花子の陰部の傷は死後死体をいじくつて作つたものである、と主張している。請求人の捜査段階における右司法警察員や検察官に対する各供述調書にはそのような記載がない。しかし、この点の供述がないからといつて、請求人の「自己の陰茎を半分程同女の陰部にそう入した」という前記各供述調書における司法警察員や検察官に対する供述を、真実に反するとする理はないと考える。

ただ、医師鈴木完夫の鑑定書によると、「外陰部の裂創は出血が認められるが周囲の生活反応が殆んど無く附近に外傷が認められない。腟穹隆部の裂創内には凝血を含んでいる。」と記載してあり、他に凝血を認めていないところよりみて、上田「新鑑定」や同「新鑑定証言」、太田「新鑑定」や同「新鑑定証言」もいうとおり、陰部の損傷は死戦期以後に生じたものとする合理的疑があること、後述のとおりである。従つて、陰茎を半分そう入した可能性のあるのも死戦期以後ということになる。ただ、そのようになると、請求人の右司法警察員や検察官に対する各供述調書中の「自分の大きくなつた陰部を女の子のおまんこにあて、右手をもつて押しあて腰を使つてグツと差入れました。半分位入つたと思います。女の子はもがきながら痛いおかあちやんと力一杯泣くので左手では押えきれなくなり、私は構わず腰を使いましたが、余り暴れるのでやつきりしておまんこをやめて……石を拾い女の子の左胸辺を殴り……両手を女の子の首にあて力一杯押えつけました。………」という趣旨の供述は、問題を含んでくる。しかし、この点は犯行順序の問題に帰着すると考えるので後に検討することとする。

(二) 胸部損傷の成傷用器について、

原確定判決は「被告人(=請求人)は附近にあつた拳大の変形三角型の石(昭和二九年領第一一二号の一〇)(即ち本件「石」)を右手に持つて甲野花子の胸部を数回強打した」と認定している。そして、原確定判決は右のように甲野花子の胸部を強打した石が本件「石」であることを前示第二、(二)(B)や(D)に記したように、右石(昭和二九年領第一一二号の一〇)の存在及び請求人の検察官に対する第三回及び第五回各供述調書、請求人の司法警察員に対する昭和二九年五月三一日付(原記録五六五丁以下のもの)及び同年六月一日付各供述調書司法警察員作成の昭和二九年六月一日付実況見分調書等を総合して認定しているものと認められるところ、さらに原一審で取調べられた第四回公判調書中の証人相田兵市の供述記載等を合わせ考えると、原確定判決は、これらの証拠により、従来捜査官としては石で甲野花子の胸部を殴つたということは全然考えておらなかつたが、請求人が石で殴つたと供述し「使つた石は投げはしないから近所にあるだろう。」というので前記実況見分調書のように昭和二九年六月一日実況見分をしたところ、犯行地付近は粘土質で死体のあつたところを中心として半径三メートル以内には拳大変形三角形石(前同号の一〇)(即ち本件「石」)の他、下端約三分の一位土中に埋つた石一個があつたのみであり、本件「石」を請求人に示したところ、この石で甲野花子の左胸部を殴打したものであることを認めた経緯を肯定し、さらに「古畑鑑定証言」で甲野花子の胸部損傷は本件『石』の殴打によつてでき得ることを肯定し、請求人や弁護人の公判廷におけるこれを否定する主張にも拘らず、前示のように事実認定したもの、と思料されるのである。

ところが「太田新鑑定」や上田「新鑑定」によると、本件「石」では甲野花子の胸部の傷は生じない旨記載されており、さらに当裁判所の証人兼鑑定人としての各供述(即ち「新鑑定証言」)に際し、仔細にその理由を述べている。弁護人は、この点よりみても請求人の司法警察員や検察官に対する本件犯行の自白は虚偽であることが明らかになつたのであり、請求人の無罪が「新鑑定」によつて明白になつたと主張する。ところで「新鑑定」が本件「石」で甲野花子の胸部の傷ができないとする理由は次の(a)(b)の二点に帰着する。

(a) 左胸部体表の革皮様化表皮剥奪部の形状大きさよりみて、本件「石」では形成し得ないという。

しかし、この点に関する太田「新鑑定」もかなりに経験的なものであり、昭和四七年四月六日付太田「新鑑定」や同人の「新鑑定証言」によつて太田伸一郎自身が認めているとおり、人体と粘土とは物理的性状がが異り本件「石」と同じ形状の石膏模型石を作り、粘土を叩打して粘土に形成された形と、本件被害者の左胸部表皮剥奪部の形等とを比較し、その形状ならびに大きさが合致しない、といつても絶対視できない。

また、上田「新鑑定」は、同鑑定書五九頁六〇頁で、医師鈴木完夫作成の鑑定書の三(9)(原記録一五〇丁)に記載されており右上田「新鑑定」九頁で特定されている、甲野花子の死体左胸部にあつた(9)(ロ)の傷は本件「石」でできるが、同(9)(イ)の傷や同(9)(ハ)の傷は本件「石」ではできない、とする。

しかし、上田「新鑑定」は、右(9)(イ)の上下二つの傷を同時に受傷したものとして(その必然性はないと認められる)鑑定しているのであつて、上下二つを別々に出来たものとしたうえでなお、本件「石」の殴打ではできないという鑑定をしているわけではないし、(9)(ハ)の表皮剥奪とするものも写真からの判定に過ぎず、直接死体解剖をした医師鈴木完夫の鑑定書には「周囲に半胡麻粒大の表皮剥奪を認める」と記載しているだけであるから、上田鑑定人が右(9)(ハ)の表皮剥奪の状況を独自に写真から判定し直ちに本件「石」ではこのような傷は生じ得ないとすることは相当でないと考える。従つて、左胸部体表の革皮様化表皮剥奪部の形状大きさという観点からすると上田「新鑑定」も、本件「石」で甲野花子の左胸部が殴打されたという事実を否定するようなものではない、と考える。

要するに、甲野花子の死体左胸部体表の傷の形状大きさよりする「新鑑定」も旧証拠と総合してみて本件「石」ではこのような左胸部体表の傷を生じ得ないとする明らかな証拠であるとは言い得ないのである。この意味で「新鑑定」も、請求人が右検察官や「司法警察員に対する各供述調書で「本件『石』で甲野花子の胸部を数回力一杯殴りつけた。」と述べているところを信憑できないとする理はないと考える。

(b) 本件「石」では肋間の表層のみに達し、肋骨の損傷なくして第四肋間に穿孔を来たさないとの点について。

たしかに、太田、上田の両「新鑑定」やその「新鑑定証言」によつて指摘されているとおり、本件「石」の大きさ形状と七才の女児の胸廓の大きさ形状を対比してみると、本件「石」では肋間の表層のみに達し肋骨の損傷なくして、肋間の深層には達し得ないものと認められる。

ところで、両「新鑑定」の本件「石」で甲野花子の左胸部の傷を生成させることができないとする論拠は、その傷は凶器が肋間深層に達して出来たものであることを前提にしていることは、右両「新鑑定」自体に明らかである。しかし、右傷は果して凶器が肋間深層に達して出来たものと断定できるであろうか。

即ち、第四肋間の穿孔は単純に凶器が肋間の深層に達したということによつて肋間筋が挫滅され生じたものと認定してよいだろうか。上田「新鑑定」や上田「新鑑定証言」で指摘されているように、甲野花子の左胸部の傷は奇妙な傷である。即ち、外表皮膚部の表皮剥奪は数個の損傷部より成り傷と傷との間に健全な皮膚も残つているのに、肋間穿孔部は横に四センチメートル位のものが抜けたというような一つの傷となつていて、組織の橋架が残されていない。凶器による打撃によつて生じた傷とすれば、外表からみれば数回の打撃によるもののようであり、肋間穿孔部からみれば上田「新鑑定証言」もいうように一回の打撃によるものと考えざるを得ない。しかも表皮と脂肪層のみ残り、筋肉のみ消失し肋骨は何の損傷も受けていない。またその肋間筋もどこへ行つたか証明されていない。外表の傷が凶器の一回の打撃でできたとすると、余程特殊の形の凶器でなければならない。このように外表の傷と肋間穿孔部の状況とは素直に対応しないのである。凶器が外表に傷を与えさらにそのまま肋間深層部に達して肋間穿孔が出来たものとしては、余りに、相互に符合しない点が多々あるのである。特に、上田「新鑑定」及び上田「新鑑定証言」によると、肋間穿孔部の大きさは横に一直線上に四センチメートル位が抜けた形になつているのに、胸部外表皮膚部の傷の大きさはこれを合しても最大限3.3センチメートル位で、明らかに肋間穿孔部の傷の大きさは外表の傷の大きさを合したものより大きい。肋間穿孔部の状況よりみてそれが一回の打撃で生じたとすると、上田「新鑑定証言」がいうように普通は表皮部の傷の方が大きくて中に入る程小さい筈である。上田「新鑑定証言」はこれらの点につき、すべて非常に起り得ないことであるとか、むしろあり得ぬことであるとか、こうした例を見たことがない等、と表現している。特に表皮の傷の方が肋間穿孔部の大きさよりも小さいという点は重大であつて、もしこれが凶器の一回の打撃によつて生じたとすると少くとも表皮において3.3センチメートル位の傷を生じただけなのに、さらに肋間部において四センチメートル位の大きさの穿孔にする何か特別な原因力が働いていたことになる。上田「新鑑定証言」はそのことを「そこに何か特別な機転(速記録で「起点」とあるのは誤記)が働いていたと考えなくてはおかしいと思う」と述べている。もつとも、その機転がどのようなものであるかは明らかでない。表皮部の傷よりも大きく肋間筋を消失させる機転は、凶器がこの部分に達することによつて生じた傷をさらに拡大する原因力であつたかも知れないし、或はさらに進んで凶器がこの肋間深層に達しなくても、このような傷を作り得る原因力が他にあつたのかも分らない。むしろ、前記甲野花子の左胸部の傷のこのような奇妙な状況は、凶器が肋間深層に達して肋間筋を挫滅させてできたものであと直ちに結論づけるには、大いに疑問を抱かしめられるのである。その意味で、上田「新鑑定」は寧ろ、この凶器が肋間深層に達しなくて肋間穿孔が生じたのではないかという考を大いに裁判所に抱かしめる内容であるともいえるのである。もつとも、上田「新鑑定証言」はこのような原因力を想定できないという。即ち、同鑑定人は「第一〇号の石(本件「石」)の角部を肋間部にあてても肋間の表層のみに石は達すだけであり第四肋間には穿孔を来たさず、とありますが、石による打撃以外に第四肋間筋に穿孔をきたすような原因は考えられないでしようか。たとえば、病気であるとか、動物によつて噛まれたとか、というようなことは考えられないでしようか。」という問に対し「そういうようなことは考えられません。病気でとかということは全然ありませんし、動物によつて噛まれたということもございません、外表に表皮剥離はありますけれども損傷はないんですから絶対に考えられません。」と答えているが、これは問において示された事例を否定しただけで、他の原因力については同鑑定人には思い当らないという意と解される。

同鑑定人はこの想定できないということから、逆に、「たとえば傷の周囲が二ミリくらいとしまして、二ミリくらいの一番にはいつてきた上からスタンプみたいに押しますね、一番上の損傷は三センチくらいの損傷だと、そうすると、傷の皮下の組織がついてきますから、それがはいつて四センチぐらいになり得るんじやないだろうかと、こういうことは非常にありにくいことだとは思いますが、そういうことでも考えますと、どうも考えられるんじやないかと、非常に少いことだとは思いますけれども。」と述べている。しかし、これも矢張り一つの想定に過ぎない。しかも強いてなした一想定に過ぎない。これであると認定する根拠もなければその論証もない。むしろ、同鑑定人自身、このようなことは非常にありにくいと認めているし、当裁判所も前記体表の傷及び肋間の穿孔状況よりみて、このような想定には納得できないのである。端的に上田鑑定人の言わんとする趣意を酌むならば、それは、本件「石」が肋間深層にまで達して肋間穿孔を生じたものではないといい得ても、それ以上にどのようにして肋間穿孔を来たしたかは分らない、ということになると思われる。このようにみてくると、上田「新鑑定」は凶器が体表の傷を作つたうえで肋間深層に達したものであることを前提として鑑定しているが、鑑定の内容自体はむしろ裁判所をしてこのことに大いに疑問を抱かしめる内容となつているというべきである。そのうえ同鑑定は本件肋間穿孔は凶器が肋間深層に達して出来たものであることを積極的に論証していない。かくして、上田「新鑑定」は凶器が体表の傷を作つたものの肋間深層に達しなくて、なお、第四肋間穿孔が生じた可能性のあることを裁判所をして否定できない結果となつているのである。もち論、その肋間穿孔がどのようにしてできたかは認定できないけれども、本件再審請求事件においてはそこまで認定する要はない。してみると、甲野花子の左胸部の傷は凶器が肋間深層にまで達したか否か分らない、ということに帰着する。この意味で上田「新鑑定」が本件「石」では肋間の表層のみに達し肋骨の損傷なくして第四肋間に穿孔を来たすことはない、と述べている点も、前記第二、(二)(B)(D)等の証拠によつて認められる本件「石」で甲野花子の左胸部を殴打したものであるという認定を否定するものではないということになるのである。なお、上田政雄の昭和五一年一一月三一日なる日付の鑑定書において、同人は検察官が提出した鑑定人井上剛作成の鑑定書にいう「甲野花子の左胸部内部の大胸筋及び肋間筋などの組織の崩壌は表皮剥奪の際に侵入した嫌気性の有芽胞菌(クロストリジウム菌類)の作用による組織の分解消化に基づく死後変化であつて外傷性異常でない」という鑑定に反論し、「本件の肋間筋の変化や胸筋の変化は融解現象ではないと考える」としたうえで、「外傷性によるものである」としているが、そこでも、積極的に外傷性であると考える根拠を示しているわけではないし、そもそも同鑑定人はそこにそれが何であるか結論づけ得ない何らかの機転が働いていたことを認めていること上記のとおりであるから、凶器が肋間深層に達しなくても肋間穿孔が生じた可能性を否定する結果にらないことは、同人の「新鑑定」「新鑑定証言」等全体を通観し検討すれば容易に看取できるところである。所詮、上田「新鑑定」は結論こそ本件「石」では甲野花子の第四肋間の穿孔をきたすのは著しく困難であるとしており、その結論は本件「石」が肋骨の損傷なくして肋間深層に達し得ないという意味では正当であると考えるが、凶器が肋間深層に達しなくても肋間穿孔が生じたのでないかという可能性を否定しているものでない以上、上田「新鑑定」は本件「石」で甲野花子の胸部を殴打したことを否定するものではないと考える。同様に太田「新鑑定」も太田「新鑑定証言」を合わせてみれば明らかなように甲野花子の胸部表皮の傷の大きさ形状と肋間穿孔部の穿孔の大きさ形状の比較検討を欠き、肋間穿孔は凶器が当然肋間深層に達して出来た傷である、との前提に立ち鑑定しているもので、これによつて甲野花子の左胸部の傷は本件「石」によつて生じたものでない、と鑑定しているのは、定かでない前提に立つものといわざるを得ない。

このようにみてくると、上田、太田の両「新鑑定」も第三、二(Ⅰ)(二)冒頭で示したような、証拠によつて認められる事実に、この面から合理的な疑をいれるようなものではなく、「本件『石』によつて甲野花子の胸部を数回力一杯殴りつけた」という請求人の司法警察員や検察官に対する前記供述調書における供述を信憑できないとするものではない。北条「新鑑定」も胸部の傷の成因に疑問を呈しているが、資料も不十分、特に示された検証調書の写真も利用価値のなかつたものである等限局された状況での鑑定であり、その疑問の根拠も余り明らかでなく、本件「石」によつて甲野花子の胸部を殴打した、という点に合理的疑をいれる程のものではない。

なお、検察官の提出した井上剛の「鑑定書」と題する書面では、甲野花子の肋間に穿孔を生ぜしめたのはクロストリジウム菌類であると推定しているが、これも飽くまでも推定の一つに過ぎず、それであると認定できる程のものでなく、その点の検討をしなくても「新鑑定」それ自体胸部損傷の成傷用器という面からみて、再審を開始すべき明らかな証拠とはいい難いこと前示のとおり明白である。井上剛を鑑定人や証人として尋問しなかつた所以である。従つてまた、上田政雄の昭和五一年一一月三一日なる日付の鑑定書及び同年一二月一〇日付鑑定書訂正追加という書面をこれ以上に取上げて検討する要もなければ上田政雄をさらに証人兼鑑定人として尋問する必要もないのでこれをしなかつた。

(三) 犯行の順序について。

前記第二、(二)、(A)で明らかなように証拠によつて、

1 甲野花子が扼殺されたこと。

2 その陰部に高度の損傷を受け、腟内に指或は陰茎様の細長い鈍器を無理に挿入されていたこと(「新鑑定」もこれを否定するものでないこと、第三、二、(Ⅰ)(一)のとおり)

3 その左胸部に鈍器によるものと認められる損傷のあること(本件「石」によるものでない、とはいい得ないこと、第三、二(Ⅰ)(二)のとおり)

を各認めたうえ、その余の証拠と総合して「被告人は……甲野花子を姦淫し……拳大の変形三角型の石(昭和二九年領第一一二号の一〇)を右手に持つて、同女の胸部を数回強打したうえ、両手で同女の頸部を強く絞めつけ……」と認定した。即ち犯行の順序を姦淫→胸部殴打→頸部扼殺 と認定しており、これは請求人の司法警察員や検察官に対する各供述調書における供述に基づくものである(勾留質問調書もこれに反する供述をしていない。)とともに「古畑鑑定証書」をその支柱としていることは明らかである。ところで「古畑鑑定証言」は陰部の損傷が頸部絞扼以前であると推定しているが、その理由を明らかにしていない。

また、胸部損傷も頸部絞扼以前であるとし、その理由を、

(イ) 幼児においては血圧が大きくないため皮下出血を伴わない生前の損傷があること、

(ロ) 胸部の革皮様化した表皮剥奪が褐色なのは軽微な皮膚組織内の出血があつたものと考えられる、

(ハ) 左肺上葉の前下端より約三糎の部分が小指頭大に濃赤紫色を呈し下葉の後下縁の部分は拇指頭大濃赤紫色を呈し膨大している部分があり、膨大せる部分を切開すると内部に出血が認められるのは明らかに生前の外力の影響を思わせる、

の三点に求め、胸部の損傷は生前鈍体の作用によるものであるとしている。

しかしながら、弁護人の昭和五一年六月三〇日付再審請求理由補充書で適確に指摘されているように、「新鑑定」特に太田、上田「両新鑑定」によつて「古畑鑑定証言」の前記論拠は崩れたものとみなければならない。即ち、

(イ) 古畑論拠の(イ)については上田「新鑑定」のいうように六才児の収縮期血圧は一二四〜九四mmHg、拡張期血圧は八六〜四六mmHgであるとすると、同年令児が生前に受傷した場合でも皮下出血が出現し難い、とはいえない。太田「新鑑定」も同旨の見解である。

(ロ) 同じく古畑論拠の(ロ)についても太田「新鑑定」のいうように死体の表皮剥奪部分が革皮様化すると褐色調を増してくるので、褐色調であるからといつて皮中出血があつたといえず、直接死体を見分した医師鈴木完夫の鑑定書中にも革皮様化部分に出血を認めた旨の記載は全くない。

(ハ) 同じく古畑論拠の前記(ハ)についても、これが外傷性のものか非外傷性のものか判定する根拠はなく、太田、上田両「新鑑定」がいうように、左前胸部の皮膚筋肉に生活反応が全く欠如していてこの左肺の部分にのみ生活反応があると考えるのは理解し難い。左肺のこの部分の変化については血液就下として或は血液吸引としてまた大理石模様としての説明もつくのであつて(勿論それと認定するものではない)これをもつて生前の外力の影響によるものとする論拠とするには乏しいと思われる。

かくして「古畑鑑定証言」が胸部損傷を生前鈍体の作用によるものとする論拠は「新鑑定」によつて崩れたとみなければならない。そして死体を直接見分した医師鈴木完夫がその鑑定書中で「死体の左胸部の損傷には出血等の生活反応が全く認められない事より死後のものと考える。」としていること。特に上田「新鑑定」及び上田「新鑑定証言」がいみじくも指摘しているように、左胸部外表の傷の位置があまりにも平行的であることは、生前につけられた傷としてはまず不可能な位置であり、従つて、このような平行関係を正しく保つていることは死後身体が動かない状態で損傷されたものと考えるべきであるとする見解を当裁判所も十分首肯できる。少くとも「新鑑定」は「旧証拠」と総合してみて、甲野花子の胸部損傷がその頸部絞扼以後であるという合理的疑を生むに至つたものといい得る。

なお、陰部損傷の生じた時期について「古畑鑑定証言」は特にその論拠を示していない。医師鈴木完夫の鑑定書は「外陰部の裂創は出血が認められるが、周囲の生活反応が殆んどなく、附近に外傷が認められない事より本創が生じた際に被害者の抵抗は殆んとなかつたと推定する。」としており、さらに、同人は当裁判所の証人兼鑑定人尋問に際して、腟穹隆部に凝血を認めるも生活反応が弱いところから生活力の低下している時期に受傷したものではないか、と推定しながらも、腟穹隆部の凝血の点から頸部絞扼の方が陰部に傷害を与えたよりも後である、と供述している。しかし、上田「新鑑定」及び同「新鑑定証言」もいうように窒息死体の血液は死後しばらくの間もろい繊維素を析出して局所で組織内部で凝血を作り得ることも考えられるので腟穹隆部の凝血をこのようにしてできたと解釈することも可能であり、腟穹隆部に凝血の存在が認められるだけで腟腔内の裂創内に組織間出血がないことをはじめその他陰部に生活反応がなく、特に雑木や笹の密生する山地での所為なのに腰部大腿部等に擦過傷その他の外傷がないこと、一方甲野花子の死体頸部に明らかな生活反応を示す損傷があり、しかもおそらく同女の抵抗の爪跡とみられる爪跡があり、頸部の受傷は生前のものと考えられること、この両者を対比してみると、やはり甲野花子の陰部に残存する傷害を残した所為従つて陰茎を半分程そう入した所為は同女の頸部が絞扼されたよりも後であるとする合理的疑がある。もつとも、これは甲野花子の死体陰部に残されている傷害が扼頸以後に生じたと考えられるというだけで、「新鑑定」がその扼頸前に姦淫しようとし、或は傷害を残さないまでも陰部を弄する行為が行われたことまで否定する証拠ではない。姦淫行為が行われた場合、右のような行為はよく行われるところである。なお、陰部に傷害を残すような暴行と左胸部に対する暴行の先後関係は必らずしも明らかでなく、腟穹隆部に凝血の認められた点よりみると、陰部に対する右のような暴行の方が左胸部に対する暴行よりも先ではないかと推定されるが、確定できる程の根拠は見出し難い。しかし、いずれにせよ、「新鑑定」は頸部絞扼が先ず行われ、その後に陰部に傷害を残したような暴行及び左胸部に対する暴行が行われた合理的疑があることを明らかにしたものといい得るのであり、検察官の提出した鑑定人井上剛の鑑定書によつて同様の結論となるのであるしてみるとこの点、犯行順序に関する原確定判決の事実認定は、誤つているのではないかと思われ、それとともに、右判決の判示の犯行順序と同旨の犯行順序を供述している被告人(=請求人)の司法警察員及び検察官に対する供述調書や勾留質問調書における供述は、根本的に再検討を要することとなつたのである。

以上、検討したところによつて、「新鑑定」は、陰部損傷の成傷用器、胸部損傷の成傷用器という面からは、請求人の司法警察員や検察官に対する各供述調書及び勾留質問調書における供述に合理的疑があるとする「明白な証拠」であるとはいい得ないけれども、犯行の順序という点から検討してみると、右各供述を再検討すべき必要性を明らかにした「新証拠」であるといい得るのである。

(Ⅱ)(一) 原一審において、当時の弁護人は、被告人(=請求人)の司法警察員や検察官に対する供述調書における供述は、自白を強要されこれに迎合して供述したもので、任意性がなく、裁判官の被告人(=請求人)に対する勾留質問調書における供述も、右司法警察員や検察官に対する供述調書における供述を翻えしようもなく供述したもので、本質的にはこれらと同質であり、任意性がないと強く主張した。請求人も、原一審の公判廷で、被告人として、右弁護人の主張に概ね添う供述をしている。そして、原確定判決は、弁護人が主張する、被告人の供述が客観的事実と相違するとする点については、当時の被告人の日頃の行動にかんがみやむを得ないところであるとし、また、その供述には弁護人の指摘するような経験則上不合理な点はないとし、さらに、犯行日前後の行動に関する供述が再三変化したりしているのは、被告人の生活歴智能程度に照らして自然なことである、としたうえで、任意性を認める積極的根拠として、

(イ) 被告人は捜査官に対し本件犯行場所のごとく一般人には容易に知り得ない場所を自ら進んで図示していること、

(ロ) 甲野花子が死亡する以前にその胸部を石で殴つたと供述しており、これが古畑鑑定と一致すること、

(ハ) 捜査の経過によれば、甲野花子の左胸部の傷は被告人の供述によりはじめて被告人が判示の石で殴打したことによつてできたものであることが判明したこと、

を挙げたうえで、被告人の検察官及び司法警察員に対する供述は、捜査官による被告人の記憶の喚起または、供述の是正がなされたにもせよ、任意になされたものであることが認められる、としたのである。しかるに本件再審請求において右(Ⅰ)(三)で明らかにしたとおり原確定判決が右各調書における供述の任意性を認めた右(ロ)の点は「新鑑定」によつて見事に崩壊したのである。このことは、単に原確定判決が右各供述調書の任意性を認めた根拠の一つを失つたというだけでなく、さらに進んで逆に任意性を疑わしめる根拠となつたとすら考えられるのである。

(二) しかしながら、原一審が請求人の右各調書を証拠に採用した経緯は次のとおりである。即ち原一審第二回公判において検察官は、請求人の右司法警察員へ及び検察官に対する各供述調書を証拠申請をしたのに対し、弁護人は「被告人(=請求人)の供述は誘導強制等によつたものであつて、任意性がないから異議がある、として任意性を争う。」あるいは「関連性がない。」と主張し、その公判廷で請求人も被告人として右各調書に記されている請求人の署名指印が請求人自身のものであること及び請求人の供述したとおりに録取されていることならびに取調べに当つて暴行を受けたことはないことを認め、ただ、右供述は取調べの警察官が請求人の言うことを全然受付けず請求人には無関係のことの供述を強要し、請求人はやむなくこれに迎合したりして供述したものであると述べた。

そこで原一審裁判所は第三回公判においてさらに取調べの経緯について被告人質問をしたうえ、被告人(=請求人)の取調べの状況を明らかにするため職権で証人清水初平、同松本(松下とあるは誤り)義雄、同相田兵市、同戸塚金作を採用し、第四回公判においてこれらの証人を取調べた後、第五回公判において右請求人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書を証拠として採用決定をし証拠調べをしていることは、原確定記録によつて明らかである。

なお、検察官より第四回公判において、請求人の検察官に対する弁解録取書及び裁判官の請求人に対する勾留質問調書の証拠調べの請求があり弁護人はその任意性を争つたが原一審裁判所は被告人(=請求人)にこれに関する供述を求めたうえ、同様第五回公判で証拠決定、その取調べが行われているのである。そして本件において問題になつている「古畑鑑定証言」が行われたのは原一審第二一回公判においてである。してみると、原一審裁判所が請求人の前記各供述調書や弁解録取書や勾留質問調書に任意性ありと認めて証拠調べをしたのは原二審判決がいみじくも言つているところから窺われるように「本件捜査又は取調に従事した相田兵市、清水初平及び戸塚金作の各証言及びそれまでの記録にあらわれた捜査の経過、被告人(=請求人)が自白するに至つたてんまつ、その自白内容の変遷を検討し」て自白の任意性に疑いはないとした証拠能力を肯定したものであり、さらに、第四回公判までに取調べた関係者の供述によつてうかがわれる犯人の行動と符合していて任意性を疑う余地はないとしたのである、と思われるのである。そして当裁判所も以上のような見地より請求人の右各供述調書や弁解録取書や勾留質問調書そのもの及び右のような関係証拠を仔細に検討して、同様請求人の右各調書の証拠能力を肯定する意味での供述の任意性は十分認めることができると考える。請求人のこの点に関する原一審公判廷における供述、また、当裁判所の請求人本人尋問における供述も十分な説得力と迫力を有するものではない。

このようにみてくると、原確定判決が指摘している前記(Ⅱ)(一)(ロ)の点は、原一審における弁護人の最終弁論における請求人の右各調書は任意性を欠くという主張に対し、事後的に任意性のある証左として判示した一事由と解すべきであつて、この点が「新鑑定」によつて崩れたからといつて前記(Ⅱ)(一)(イ)(ロ)の点が本再審請求事件に提出された証拠によつて未だ疑いがでてきているわけではないし、さらに前記のような右各調書における被告人の供述の任意性を認める根拠に照らし、「新鑑定」が提出されたといつてもなお右各調書の証拠能力としての意味での任意性に疑いを生ずるには至つていないといわねばならない。もつとも原確定判決が述べているように供述の任意性を失わない程度の捜査官による請求人の記憶の喚起または供述の是正の行われたことも十分窺うに足る。また「新鑑定」によつて前記第三二(Ⅰ)(三)に示されたように請求人の司法警察員や検察官に対する供述調書や勾留質問調書における犯行順序の供述が客観的事実と喰い違つている疑いが生じてきたという点の重大性に目を覆うものではない。しかし、以上のような考察よりみて、これは寧ろ供述内容の信憑性即ち証拠価値の問題として検討すべき事項であると考える。再審請求事由もこれを供述の信憑性の問題、証拠価値の問題として捕えていることは、弁護人提出の昭和四六年一〇月一六日付再審請求理由補充書(四)、同五一年六月三〇日付再審請求理由補充書によつて明らかである。

特に、裁判官の請求人に対する勾留質問調書は、それまでの被告人の司法警察員や検察官に対する供述調書に表われていない甲野花子の穿いていた下駄は案外軽かつたとか、講堂の中は人が一杯で人と人の間から覗いたとか、という事実まで供述しており、その供述の任意性に欠けるところのないことはいうまでもないところである。

(三) なお、弁護人は昭和五一年六月三〇日付再審請求理由補充書において、請求人の自白調書は些細な窃盗の嫌疑による別件逮捕勾留により獲得されたもので、証拠能力がないと主張している。しかし、この主張自体で独立に刑事訴訟法四三五条所定の再審事由に該当するものと主張しているとも解されないし、右「新鑑定」によつて前記第三、二(Ⅰ)(三)に示されたように請求人の司法警察員や検察官に対する供述調書や勾留質問調書における犯行順序に関する供述に疑義がでてきたといつても、このことは自白の獲得過程における違法性の問題であるいわゆる「別件逮捕、勾留」の問題とは別の水平面のことであり、直ちにこの問題にまで立ち入つて再評価をすべきものとも思われない。(なお、原確定記録によると、本件において、請求人はかねて「本件事件」の容疑者の一人としてリストアップされていたところ、昭和二九年五月二四日岐阜県下で放浪中職務質問され島田警察署に同行され、同月二五日夕方金谷民生寮に一時保護され、同月二八日「同年一月末島田女子商業高校で生徒の所持品衣類等四〜五点を窃取した」という被疑事実で逮捕され、翌二九日同被疑事実で勾留され、窃盗関係の余罪を取調べるとともに同年三月一〇日前後の足取りを質問されているうち、日ならずして同年五月三〇日午後二時か三時頃に至つて「誠に申訳ない悪いことをしました。」と述べ、右甲野花子関係の本件事実を自白したもので、当日は簡単な調書をとつたうえ、翌三一日さらに詳細な取調べ、大部の調書の作成をし、翌六月一日強姦殺人事件で逮捕し、同月三日勾留するに至り、爾後取調べを続けたというものであつて、その供述が前記のように任意性が肯定される供述であること等一連の本件事実関係の下において、本件においては被告人の前記各調書を証拠能力がないものとして排除しなければならない程その供述の獲得過程の違法性が大きいものとまでは考えない。)

(Ⅲ) よつて、愈々被告人(=請求人)の前記各供述調書や勾留質問調書における供述の信憑力、証拠価値を吟味しなければならない。

(一) 原確定判決は、右各供述調書について、被告人(=請求人)が軽度の精神薄弱であり心因反応もおこし易いこと、従つて捜査官の誘導によつて暗示にかかり易いことを考慮したうえで、「被告人の記憶は日を逐つて統一されてはいないけれども(このことは、被告人の知能程度が低く軽度の精神薄弱であることにゆらいするものと認められる。)その供述は概して何等かの機会に表象し、または体験した事象にかかわるものであつて、ことさら虚構したあとが見受けられない、特に印象の強い、また日常生活の連鎖から離れた本件犯行についての供述は、明確な記憶に基く信憑性の高いものであるが、その周辺に生起した通常の浮浪生活については、特長のある部分を除いてその記憶はあいまいであつて思いついたままを供述していると認めるのが相当である」と評定している。

そして本件のごとき重大事件につき、請求人が相当鮮明な記憶をもつていたとし、本件犯行についての供述は明確な記憶に基づく信憑性の高いものであるとした有力な論拠の一つが、請求人が甲野花子が死亡する以前にその胸部を石で殴つたと供述しており(昭和二九年五月三一日付司法警察員に対する供述調書及び同年六月一三日付検察官に対する供述調書)この点は古畑鑑定人の鑑定の結果と一致するという点にあつたことは、原確定判決の判文自体に明らかである。

しかるに、この点に合理的疑いの出てきたことは、前記第三、二(Ⅰ)で検討したとおりである。そして、「新鑑定」によつて犯行順序に関する請求人の供述に疑いが生じてきたことも同所で検討したとおりである。犯行に関する供述であるから印象の強い日常生活の連鎖から離れたものであるとして、ただそれだけで信を措くことが誤りであることが明らかになつたのである。

(二) それではさらに進んで再審請求理由が主張するように、請求人の犯行に関する捜査段階における供述は全く架空であるとして全面的に排除されるべきであろうか。これについては原確定判決も摘示しているところであるが、次の諸点を考慮しなければならない。

1 先ず、請求人が昭和二九年五月三〇夜九時半頃島田警察署留置場保護室内で当直副主任であつた警察官松本義雄に対し「大罪をおかしてしまいました。」と述べたこと、及びその時の態度(原一審第四回公判調書中証人松本義雄の供述記載)である。そしてこのように松本義雄に対して「大罪をおかしてしまいました。」と述べたことは、請求人自身原一審公判廷で認めているところである。(原記録一二六丁、三一四丁)これは、別に捜査官から取調べを受けている時の発言ではない。この発言内容自体よりみてこれは自発的発言であり、改悛に基づく発言であり、高度に信憑力を有する発言である。到底捜査官側からの暗示や強制誘導によつて虚偽の供述をしたものとは思われない。請求人は原一審公判廷において「これは嘘の供述である」(原記録一二六丁)、或は「自分は現実にやつていないものを警察で無理やりに調書にし指印をとつたのでそれが新聞社の全国版にのり、親戚などではどんなに心配するか、祖先に申し訳けないと思つて、祖先や身内にあやまつたものである。」旨(原記録一七五六丁)説明している。しかし、房内でこのような時期に自発的に嘘の供述をするというのもおかしければ、祖先や身内に謝まるのを警察官にするというのも説明になるものでない。

当裁判所の請求人本人尋問においては「松本の方から『幼女を強姦絞殺してどう思うか』と言われ、『やつていない。』と言つたが『自白しているではないか。』刑事さんに『私が大罪を犯しましたと言え。』といわれたから、教えられたとおりに『大罪を犯して申訳ありませんでした。』と述べたものである。」と請求人は主張する。しかし、これまでの審理段階でこのような主張がなく、当裁判所の再審請求審理の段階に至つて何故このような主張をするのか。それにしても房内におけるこのような時期に取調官でもない松本義雄にそのように述べたことに対する説明としては、やはり当裁判所を納得せしめるには足りないのである。

2 請求人が捜査官相田兵市から証拠物たる被害者の着衣等を示されて、「チラツと見た丈であの時の様子が目に浮んで怖くて怖くて見る気になれませんでした。私はあの品物を見ず早く留置場の中へ入れて貰いたいと思いました。あれを見て子供の顔を思い出し可愛想なことをしたとつくづく思いました。」と供述していることである。(請求人の司法警察員に対する昭和二九年六月五日付供述調書、原記録六二四丁)請求人自身も原一審公判廷で「衣類を見せられた時、私は『全然知りません。』と言つたのですが、『これは確かに花子ちやんが着ておつたものだ、お前知つている筈だ。』と言つて聞かないので、自分も『ああそうですかそうですか。』と言つて面白半分にからかつておつたのです」と供述している。

しかし、それは到底面白半分にからかつて言える言語ではない。やはり、感動に基づく供述である。相田兵市も証人として原一審公判廷で被害者の着衣を見て請求人が非常に動揺した状況を供述している。(原記録三五二丁、三六一丁)

3 さらに請求人が、司法警察員相田兵市に対し、「私は今留置場の中にいても、小さい女の子の声が聞えると、私が殺した子供が生き返つて話しをしている様な気がして恐ろしく、夜等はねられません。そんな時は早くどこかへ行つてくれないかなあと思います。」と供述していることである。(請求人の司法警察員に対する昭和二九年六月八日付供述調書原記録六四四丁)相田兵市も証人として同旨のことを述べ、請求人も原一審公判廷でこれを述べたことを認めている。(原記録三六一丁)これは感動恐怖に基づく言葉である。面白半分や冗談でいえる言葉でないことは言葉の内容そのもので明らかである。

また、請求人自身が甲野花子に対する犯行をした当の本人でなくしてこの言葉がありよう筈もない。当裁判所の請求人本人尋問において、請求人は、警察官がそう言えと言つたので拷問されるのがこわくて言われるとおりに言つたと主張するが、警察官がこのようなことまで供述しろと強制するであろうか。矢張り請求人の強制された供述であるという主張には、不自然な、首肯し難いものがある。

4 さらに前示のように請求人は勾留係裁判官に対しかなり詳細な供述をして犯行を認めているということである。(原記録六七八丁以下。)しかも、請求人は当時裁判官から調べられることは分つていたという。(原記録三〇三丁)そして、それまでの捜査官に対する供述調書に表われていない花子の穿いていた下駄は案外軽かつたとか、講堂の中は人が一杯で人と人の間から覗いたとかいう事実まで供述しているのである。もつとも、右勾留質問調書において請求人は逮捕状記載の被疑事実を読み聞かされそのとおり間違いありませんと答えているところ、逮捕状記載の被疑事実は「同女を姦淫し、更に同女を扼殺し、」と記載されていて、甲野花子の死体の方から認められる被害の順序に合致しないようにも思われるが、兎も角、請求人が裁判官に対し裁判官であることを知りながら、甲野花子に対する犯行の犯人が自己であることを認めたのは重要である。

以上1乃至4は、請求人の供述面から検討したのであるが、これらは請求人が捜査官の取調べに対して一旦自白したからといつて、単にその繰り返しとして或はその惰性として供述したものとは到底思えないのである。そこには矢張り真犯人ならではの改悛があり、感動があり、恐怖があり、さらに勾留係裁判官に対する素直な供述が見受けられ、迫真力がある。片言隻語として無視し去ることのできない真実の重みを有しているのである。

5 既に、第三、二、(Ⅰ)(二)で検討したように、捜査官は甲野花子の左胸部に傷害を与えた凶器が何であるか想定できず、それが石であるとは思い及んでいなかつたところ、請求人を逮捕しその自供を得て初めて石であることが判明し、犯行現場を捜索した結果本件「石」を発見したという事実が認められる。そして、「新鑑定」も本件「石」では甲野花子の左胸部の傷を生ぜしめ得ないとするものでないこと、また前記第三、二、(Ⅰ)(二)で検討したとおりであり、原Ⅰ審裁判所で取調べられたすべての証拠(以下「旧証拠」という。)及び本再審事件に提出されたすべての証拠を検討しても、未だ、本件石では甲野花子の左胸部に傷害を与え得ないとか、或は本件「石」は捜査官の作為によつて採取された疑いがあるとか、というような、原一審裁判所の前記心証形成に介入すべき、特段の事情も見出されないのである。それまで何人も知り得なかつた(甲野花子の死体を直接鑑定した鈴木完夫鑑定人も鈍器というだけでどういう鈍器か分らなかつたと述べている。)本件犯行の凶器が請求人の自供によつて初めて石であることが明らかになつたということは、甲野花子に対する本件犯行の犯人が請求人であるとする上で有力な根拠になるものである。いわゆる犯人のみしか知らない「秘密の曝露」である。そして、証拠上その自供通りに甲野花子の死体のあつた附近で本件「石」が発見され、「新鑑定」をもつてしても本件「石」は甲野花子の左胸部の傷を生ぜしめ得る凶器ではないとすることができないこと上記のとおりであることは、事実認定上特筆すべきことであると考える。

なお、弁護人は事実の取調べとして、島田警察署ならびに静岡地方検察庁に対し本件被害者発見時になされた検証及び実況見分の際撮影された現場写真のネガフイルム一切(右調書に添付した写真以外のものを含む)の提出命令を発するよう申し立ててきている。昭和五一年六月三〇日付「再審請求理由補充書」によると、その立証趣旨は、捜査官は昭和二九年三月一三日の検証時に本件石塊を発見し得た筈であるのに請求人の自供に基き同年六月一日実況見分をした結果発見されたというのは、本件「石」が捜査官の作為によつて採取されたことを意味し、右ネガフイルムによつて本件現場における本件「石」の存否についての真相を可能ならしめるものと信ずるというのである。しかし、証拠上本件「石」が甲野花子に対する凶器でないとする疑いがでてきたわけでもないし、本件「石」の発見の経緯が不自然であるという点についてはこれまでの再審の請求でも主張され棄却されているところであるばかりでなく、現場は高い笹が密生していて凶器が石であると思い及んでいなかつた捜査官が請求人の自供するまで本件「石」を発見しなかつたことは十分諒解できるところであつて、他に捜査官が作為によつて本件「石」を採取した疑いがあるとか等というような検察官の手持証拠に対する提出命令として、本件再審請求事件の事実調べとしての提出命令を発すべき必要性が認められないので、この点事実調べをしなかつた。

また、弁護人は事実の取調べとして、島田警察署ならびに静岡地方検察庁に対し「一、本件犯罪の凶器とされた石(昭和二九年領第一一二号の一〇)につき、捜査機関において右石に血液、リンパ液、その他の体液が附着しているか否か鑑定したことがあるか。二、もし鑑定していないとすればその理由は何か、三、鑑定しているとすれば、その鑑定結果。」の照会方申出ている。しかし、前に記したように、証拠上本件「石」が甲野花子に対する凶器でないとか、捜査官が作為によつて本件「石」を採取した疑いがあるとか、と窺われる点があるわけでもないので、本件再審請求事件の事実取調べとして、右照会をしなかつた。

なお、本件再審申立書、再審請求理由書、各同理由補充書をどのように読んでも、右ネガフイルム一切及び右照会に対する回答をもつて、刑事訴訟法四三五条六号による「明白な新証拠」であるとしての再審請求であるとは到底解することができない。

6 さらに、第二、(二)(C1)同(C2)に掲げられている原一審における各証人の供述がある。当裁判所が、これについての原一審裁判所の評価を変えねばならぬような「新証拠」は提出されていないし、また、原確定判決がその「第三、認定の理由二、犯行当日の目撃者の供述について、(一)乃至(四)」で詳細に説明している右目撃者の証人としての供述についての原一審裁判所の心証形成に、介入すべき特段の事情も見出せないのである。

ただ、原確定判決が右「第三認定の理由、二、犯行当日の目撃者について、(五)」については一言しなければならない。しかし、原一審ににおいて前記(C1)(C2)に掲げられた証人のうち、中野ナツを除いて他の証人はその目撃した人物を服装が小ざつぱりしているとか、浮浪者のようでなかつたと述べてはいないから問題はない。ただ中野ナツのみは、同人が昭和二九年三月一〇日目撃したところの者を色が白く身綺麗で勤人のようであつたと供述しているので問題がある。原一審裁判所は松浦武志の証言を引いて同女が見た人物が請求人であるとしているところ、松浦武志の証言は後記のように動揺して来ているので、中野ナツの証言についてのみはこの点再評価をしなければならない。しかし、原確判決定もいうように、中野ナツの犯人の服装容貌に関する印象記憶はあいまいであるが、請求人を直接見た上で犯人の横顔が請求人に似ているという直感的印象の証言こそ重要であり、同人が目撃した人物が色白で身綺麗で勤人のようであつたと述べたからといつて、また、松浦証言が動揺してきたからといつて、請求人こそ本件犯行の犯人であると認定するうえで、中野ナツの証言が証拠価値(もち論総合認定するうえでの証拠の一として)を失つているものではない。この(C1)の証拠はやはり請求人を犯人とする上で重要な証拠価値を有することには変りないのである。

なお、弁護人はモンタージュ写真の提出命令を求めている。しかし、右中野ナツ、鈴木鉄蔵、太田原松雄については原一審公判廷において直接請求人を右鈴木らに示したうえで証言させ、弁護人に反対尋問の機会も与えたうえでの供述であるところ、「旧証拠」及び本再審請求事件に提出された証拠を検討しても、本件再審請求事件において、右モンタージユ写真を提出させて再吟味しなければならぬような必要性を認め難いので、提出命令を発しなかつたのである。なお、右モンタージユ写真は既に原一審審理中からその存在することが明らかになつており、本件再審請求理由がこれを「明白な新証拠」と主張しているものとは再審申立書、再審請求理由書各同理由補充書からも読みとることができない。

(三) 確かに「新鑑定」は、請求人の捜査段階における犯行に関する供述が、日常生活の連鎖から離れたものであるからといつて、全面的にこれに信を措くことが誤りであることを明らかにした。しかし、右(二)に記載した1乃至6の事実を総合して検討すると、「新鑑定」によつて犯行順序について請求人が捜査段階で供述しているところが客観的事実と合致しないのではないかという合理的疑いのあることが明らかになつたけれども、やはり、なお右1乃至6の事実よりみて甲野花子に対する本件犯行をしたものが請求人であるという請求人の捜査官に対する供述自体は十分信憑力を有するものと断ぜねばならない。

従つて、右のように犯行順序に関する請求人の供述に誤りがあるのでないかという合理的疑いがあるという一事から、直ちに請求人の司法警察員や検察官に対する各供述調書における供述を全く信憑力がないものとして全面的に排斥するのも相当でない。この意味において「新鑑定」だけで直ちに、請求人に無罪を言渡すべき「明白な証拠」であるとするわけにはいかないのである。

もち論、甲野花子に対する本件犯行が請求人の犯行であると自認する右各供述調書における請求人の自白に信憑性があるといつても、犯行に関する供述内容を全面的に措信するわけにもいかない。その犯行順序等の犯行についての具体的供述内容に合理的疑いのあること、叙上のとおりである。原確定判決は、「被告人の記憶は日を逐つて統一されていない(このことは被告人の知能程度が低く軽度の精神薄弱であることにゆらいするものと認められる)」としているが、その論法を用いるならば、同様犯行自体についてまでも請求人の記憶は時を逐つて統一されていない。」ということになるのであろうか。それは兎も角として、請求人の捜査段階における右各供述調書における供述には、信憑できる面と信憑するには合理的疑いがある面とのあることが明らかになつたのであるから、右供述を採証評価するに当つては、請求人の知能性格等諸般の事情を考慮しつつ十分吟味を経べきであり、また、その証拠価値は十分制限された限度内に留めるべきであるけれども、他の証拠と対比検討総合し、事実認定するうえにおいて信憑力がないとするわけにはいかないのである。況して、勾留質問調書における供述に、同様の証拠価値のあるこというまでもないところである。要は、請求人の供述と、その余のその供述する事実を裏打ちするにたる証拠とを対比検討しながら、諸般の事情から評価信憑できる程度範囲を定め、証拠を総合し、原確定判決における事実認定につき合理的疑いがあり、その認定を覆えすに足りる蓋然性があるのか否かを明らかにするのが当再審請求受理裁判所の当然なすべきところであるとともに、それで以て足りるものと考える。

(四) そこで提出された「臨床心理学研究」一四巻二号及び「赤堀裁判とその精神鑑定書における差別性についての意見書」について触れよう。

前者の中で問題となるのは、「赤堀裁判における精神鑑定書批判なる論文(以下「論文」とよぶ。)であり、後者は右「論文」の結論を記したうえで本再審請求事件審理に対する要請を記したに過ぎないものであるから、再審開始の是非を審理するうえにおいて、「前者」の他に特に後者を取り上げて検討する意味を有するものではない。前者中の右「論文」は「鑑定人林暲、同鈴木喬作成の鑑定書」を批判するものであるが、右「論文」も「本件犯行についての体験は特に印象の強い又日常生活の連鎖から離れたものである」ことは肯定しているので、以下検討してきたように甲野花子に対する本件犯行の犯人が請求人であるという請求人自身の供述を措信することの妨げとなるものではない。

また、原確定判決は、本来裁判所の自由心証に属するところであるが、前記のように、請求人の供述について被告人(=請求人)が軽度の精神薄弱者であり心因反応もおこし易いこと、従つて捜査官の誘導によつて暗示にかかり易いことを考慮したうえで「被告人の記憶は日を逐つて統一されてはいないけれども(このことは被告人の知能程度が低く軽度の精神薄弱であることにゆらいするものと認められる)……通常の浮浪生活については特長のある部分を除きその記憶(特に日時の点に関する記憶)があいまいであつて、思いついたままを供述していると認めるのが相当である」としている。そしてこれは、鑑定人林暲、同鈴木喬共同作成の鑑定書及び原一審第九回公判調書中証人鈴木喬の供述記載部分で請求人は智的には軽度の精神薄弱が認められると鑑定しているところを前提にしたものである。前記「論文」はこの鑑定を論難し同鑑定が知的側面の鑑定に用いた資材からは、請求人が精神薄弱であると診断するのは妥当でなく、またそこで用いられたテストの多くは旧式で科学の名に値しないという。

しかし、右資料も請求人の学業不振を示し請求人の知能が通常人より劣つていることを否定するものではないし、右テストについても右「論文」自体、このテストからも能力程度の非常に大まかな推定は可能であるとしたうえで、請求人は「正常知の下」と推定するのが妥当であるとしているのであつて、いずれにしても請求人の知能が通常人より劣つていることに変りはない。また、請求人が心因反応を起こし易い従つて捜査官の誘導によつて暗示にかかり易いという点についても、右鑑定書及び鈴木喬の原一審第九回公判において供述するところを、前記「論文」を参照しながら検討しても、なおこれを否定することはできないのである。所詮請求人の、知能の低いこと、心因反応を起こし易いこと、従つて暗示にかかり易いことは肯定せざるを得ないのであつて、この点はやはり原確定判決同様、請求人の供述を評価するうえで考慮すべき重要な要素であることには変りないのである。なお、弁護人は鈴木喬について証人申請をしている。本証人申請の趣旨が、証拠資料として同証人が「明白な新証拠」であるとしての申請であるならば、少くともその証人として供述するところを明示してなすべきであるのにその記載がない。また、同人については、既に原一審第九回公判において証人として供述し、弁護人よりの反対尋問も受けている。これ以上に同人を本件再審請求事件において証人調べをしなければならない必要性を到底見出し難い。同人を証人として取調べしなかつた所以である。

なお、右「論文」中には、「判決の認定した犯行→高飛び→大磯署での取調べ→島田へ戻る→掛川署へ自ら出頭という足取りは、本件犯行という強烈な記憶を有すべき者の行為としては了解し得ないところである。」旨の記載があるが、予期せぬ失火から大磯警察署で取調べを受ける破目となつたものの事なく釈放された請求人が、兄の家にも帰れず働く仕事もなく、刑務所に入れて貰う心算で(原記録五四六丁)微罪に藉口して掛川署へ出頭したからといつて、甲野花子に対する本件犯行を請求人の犯行でないとする理はないと考える。要は請求人を有罪と認定できるだけの証拠の有無の問題であると考える。

(Ⅳ) 以上によつて、「新鑑定」によつても、前記第二(二)(D)掲記の請求人の各供述調書や勾留質問調書における、甲野花子に対する本件犯行の犯人は請求人であるという自白自体の信憑力のあること、従つてその余の供述内容自体についても、制限された範囲内ではあるが、信憑力のあることを明らかにした。そして、旧証拠に以上に検討した「新鑑定」を加えて検討してみても、これから検討する、本件再審請求事件に提出された証拠が「新証拠」でありかつこれによつて、請求人のアリバイ関係等に合理的疑いがでてきて請求人が犯人でないとなれば格別そうでなければ結局原確定判決がその第二証拠欄に「罪となるべき事実」を認めた証拠として標目を掲げる証拠(ただし「古畑鑑定証言」を除く。以下「本件有罪証拠」とよぶ)を総合して甲野花子に対する本件犯行の犯人が請求人であると認定すべき点については変りはないというべきである。進んでなお、再審を開始すべき理由があるか否かは、後に検討することとする。

三金谷民生寮関係の写真二葉、山城多三郎の供述録取書及び金谷民生寮の「一時保護取扱記録」の写について。

これらの証拠は結局昭和二九年五月二五日より同月二八日に至る間の金谷民生寮における請求人の言動態度をもつて犯行後の真犯人とは思えない不合理な行動であるとし、請求人が真犯人ではないことを証明する直接証拠を補強する「新証拠」であると主張するもののようである。

請求人が岐阜県稲葉地区で職務質問を受け静岡県島田警察署に同行され昭和二九年五月二五日出署してから右金谷民生寮に入所し、爾来同寮にいて同月二八日同所で窃盗の被疑事実で逮捕されたことは、原一審当時に明らかであり、その当時の状況は請求人自身原一審第三回公判で詳細に供述している(原記録二二七丁以下)ところであつて、果して右証拠が「新証拠」といえるか多少疑義がないわけではないが、それは措くとして、右証拠によつて窺われる請求人の金谷民生寮に前記日時在住当時の言動態度が原一審で取調べられたすべての証拠即ち「旧証拠」と総合してみても、「本件有罪証拠」によつて認められる請求人が本件犯行の犯人であるとする事実認定を動かすような証拠たり得ないことは、いうまでもないところである。再審請求の理由自体、右金谷民生寮関係の写真二葉等の掲記の証拠を、請求人が真犯人でないことを証明する直接証拠を補強する証拠である、としか主張していないのである。そして、これまで検討してきたところに本証拠を加えてみても、甲野花子に対する本件犯行の犯人が請求人であるとする認定に、合理的疑いを抱かしめるようなものではない。本証拠もまた、刑事訴訟法四三五条六号にいう「明白な証拠」ではない。

四新聞紙写八葉について

刑事訴訟法四三五条六号にいう明白な証拠とは証拠能力もあり証明力も高度なものをいうと解すべきところ、右新聞紙写八葉はいずれもいわゆる新聞記事で誰がどのようにして誰から取材したものであるかも明らかでなく、再審請求理由補充書と合わせてみると、弁護人は、これによつて本件捜査の経過を明らかにしようとするものと看取されるが、本件証拠関係の状況よりみて、これらが到底無罪や原判決の認めた罪より軽い罪を認めるべき明らかな証拠とはいえない。

五草山テイの供述録取書について

草山テイについては、原確定記録や証拠物にも現われていない。しかし、これは伝聞(おそらく請求人や岡本の供述からの、或はさらにそれを聞いた人からの供述からかも知れない。)の伝聞(消防の係の人からの)の伝聞(草山テイの供述録取書という書面)という関係にあり、実質的には請求人や岡本の供述に基づくもので、昭和二九年三月一二日当時)請求人と岡本が茅ケ崎消防署前で会い大磯町へ来たと、述べていたことは、既に原一審で取調べられ押収されている請求人の司法警察員に対する昭和二九年三月一三日付供述調書や岡本佐太郎の司法警察員に対する同日付供述調書(昭和二九年領第一一二号の一四、一五)にも現われているところであつて、草山テイの供述録取書は、証拠資料の内容としては刑事訴訟法四三五条六号にいう「新証拠」ということはできない。

また、草山テイの供述が請求人や岡本の供述に基礎をおくものでなく、たとえば両名が平塚の方から来るのを目撃した者の供述に基礎をおくとすれば、「新証拠」とはいい得ようけれども、原供述者が誰であるか明らかでない証拠であつて、刑事訴訟法四三五条六号にいう「明白な証拠」ということはできない。

いずれにしても、請求人が昭和二九年三月一二日当時岡本と茅ケ崎消防署前で会いその後大磯町へ来たと述べていたことは、原一審当時から明らかになつていた事実であつて、別段これを肯認してもなお請求人が甲野花子に対する本件犯行の犯人であると認め得ること、原確定判決の説示するとおりであつて、右草山テイの供述録取書は、再審開始事由となり得る証拠ではない。

六芹田孝一作成の外川神社周辺見取図一枚及び同人撮影の外川神社周辺の写真一一葉、農林省茶業試験場作成の昭和二九年二月及び三月気象表写について、

請求人には、これまで検討してきたような捜査段階における本件犯行を自供する供述の反面に、原一審公判廷等におけるアリバイを主張する供述がある。掲記証拠はこの請求人のアリバイ主張に関する証拠である。

ところで、原確定判決は請求人のアリバイがあるとの主張に対し、「一方に、被告人(=請求人)のアリバイに関する供述とこれを裏づけるために提出された各証拠があり、他方に昭和二九年三月七日ないし九日頃被告人(=請求人)と島田市内またはその近郊で会つたという松浦武志、小山睦子の各証言とこれを裏づけるために提出された各証拠があるとし、両者を対比し松浦武志、小山睦子の各証言は高度の信用力があるが、被告人(=請求人)のアリバイに関する供述は供述内容自体に不自然なものがあり、被告人(=請求人)の供述した日時に結び付くものが乏しく、同年三月七日ないし一〇日頃島田市またはその近郊にいなかつたものと断定し去るわけにはゆかない。」として請求人のアリバイの主張を排斥している。

しかし、そもそも、これはアリバイの主張である。

本件犯行を請求人の犯行であるとする証拠に対して、請求人の特定の日時における所在地点を明らかにして、時間的場所的に同人には犯行は不可能であるとし、或は、その見地から同人を犯人と認定することには合理的疑がある、とする主張である。

(一)  芹田孝一作成の外川神社周辺見取図一枚及び同人撮影の外川神社周辺の写真一一葉について。

これらの証拠は結局神奈川県横浜市保土ケ谷区瀬戸ケ谷町一九六、一九七の外川神社の存在を新たに発見した証拠として、昭和二九年三月一〇日の夜請求人の宿泊した場所が同所であり、これは請求人にアリバイがあることの明らかな証拠である、と主張するものであることは、昭和四四年一二月八日付再審請求理由補充書(一)、弁護人の昭和四五年一一月二七日付証拠調請求書によつて十分窺知できるところである。

たしかに、右外川神社の存在は本件再審請求事件にいたるまでまつたく審理に現われていないところであり、「新たな発見」ということができるし、右見取図や写真さらには芹田孝一の証人尋問調書や右外川神社やその附近の昭和四五年六月二六日実施の検証調書によつて窺われる外川神社やその周辺の昭和二九年三月一〇日ころの状況は、請求人が従来主張していた横浜市戸塚区平戸町三九二番地所在の「光安寺」よりも、遙かに請求人が原一審公判において昭和二九年三月一〇日夜寝たと主張していた場所の状況に似ていることは、これを肯定しなければならない。しかし、そもそも、請求人の主張自体、原一審において、昭和三一年一月一六日付の上申書においては、昭和二九年三月一〇日夜寝た場所について単に、「この夜は横浜駅よりうんと西へ下つたあるお宮にてねる。」とだけしか記載なく、準備手続の結果昭和三一年五月一一日作成した図面にも国道とその国道の横浜の方からみて左手にお宮として入口のある建物のみを記載し、まわりの建物やお宮へ行く道順を忘れましたと記載してあるのに、昭和三一年七月二五日東京都で行われた検証の後である同年七月三〇日付上申書で漸く弁護人の主張するような比較的に詳細な図面を作成し、同年九月一一日の第一二回公判で被告人としてこれに添う供述をするようになつたのである。しかも、当裁判所の請求人本人尋問の際、弁護人の質問に対して請求人は「昭和二九年一月東京の方の布田の日活撮影所の工事現場の渥美組へ渥美さんという人と働きに行つて翌朝とび出し新宿、東京駅を経由して静岡の方へ向つて国道を通つた時外川神社付近を通つて、遠くの方に何かこんもりした森があつて、あああの辺にはお宮さんがあるんじやないかと判断して通つたことがあるが、そのお宮の方へは行つていない。」と供述している。そして原審第一二回公判で、東京での検証の帰途、車中からこれを見て来た、と供述している。このような経緯は果して、請求人が真実外川神社へ行つたことがあるのか、東京布田の日活撮影所の工事現場からの帰途見かけたところを原一審の東京での検証の帰途車中から見たところを基にしてさらに詳しく主張するようになつたのではないか、との疑すら抱かしめられるのである。しかし、何と言つても、再審請求にとつて根本的に致命的なことは右外川神社で請求人が昭和二九年三月一〇日夜寝たという点に関しては、請求人がそのように自己に利益な供述をしているだけで他にこれを疎明する証拠すら全くないということである。最大限請求人に利益に評価しても、芹田孝一作成の外川神社周辺見取図等右「新証拠」によつて明らかになつた外川神社の発見ということは、せいぜい請求人が何時かの時点において外川神社にいた、という証拠になり得るというだけで、それが何時であるか、請求人自身が昭和二九年三月一〇日の夜であると主張するだけで、それ以上の手がかりとなるものはないのである。特に、請求人が浮浪生活をしていた者であるだけに、その感は一層深いのである。

(二)  ここで、弁護人提出の昭和五一年一一月三〇日付「再審請求理由補充並に意見書」添付の時刻表運賃表、小鍛治格宛請求人の手紙、仙石原観測所昭和二九年三月月表、パンくずをもらつたと思われる家付近の写真二葉(以上各写)観測原簿拡大複写(東京、横浜、三島、静岡各関係分)臨床心理学研究一四巻二号、を採り上げ検討することとする。

1、時刻表運賃表

右は、原一審で証拠調べされた平塚駅長の回答書(原記録一三六八丁)と証拠資料の内容としては同一である。「新証拠」とはいうことができない。

2、小鍛治格宛の請求人の手紙写、仙石原観測所昭和二九年三月月表写、観測原簿拡大複写(東京、横浜、三島、静岡各関係分)弁護人提出の昭和五一年一一月三〇日付「再審請求理由補充並に意見書」によれば、これらの証拠は、請求人のアリバイに関する供述が、降雪、気温、風速の気象の面から当時の気象に合致するとして、請求人の供述に信憑力があると主張するものである。

先ず、降雪についてみるに、東京、横浜の二月、三月における、また仙石原の三月における各降雪の回数が所論もいうように極めて少いことは、これを認めることができる。この点については次に3において検討することとする。

次に風速の点についてみるに、仙石原観測所昭和二九年三月月表によると、昭和二九年三月五日風速毎秒2.2メートルというのはいわゆる軽風に属することは常識であり、それ程強い風でない。なお、原一審で取調べられた横浜測候所長の気象状況回答書によると、右三月五日夜午後一〇時(原記録一三四八丁参照)の風速は8.7メートル毎秒であり、これによるならば相当程度の風速のあつたことが窺われ、たき火をして「今晩は風が強いから。」と言われた(原記録一一一九丁)としてもおかしい風速ではない。しかし、この程度の風速は同夜に限つたわけではなく、風速からみてたき火を注意されてもおかしくない夜が他にも多数あること、同回答書によつて明らかである。この風速の点からアリバイとしてその日を同年三月五日であると特定できた、とするわけにはいかないのである。請求人のアリバイ供述の裏打ちがあつたとまではすることができないのである。

所論はまた、請求人がたき火したという日と気温との間に相関関係があると主張するが、上記観測原簿拡大複写によつて調べても請求人がたき火したと供述していない日の気温もいずれもたき火して暖をとつたところで不思議でない気温であることが認められ、弁護人の所論は独自の論といわざるを得ない。

なお、請求人は原一審第一二回公判廷において昭和二九年三月五日熱海、鴨宮間でひどい雨にあつたと供述しているが、原一審で取調べられた網代測候所長の「気象状況の照会について(回答)」によると同日六時より一八時までは曇午前中一時小雨あり(八時二二分より八時二九分まで雨、九時一九分から一〇時まで雨、一〇時より一〇時四二分まで雨断続)同日一八時より翌日六時までは曇早朝より雪と記載されており、また、前記観測原簿拡大複写(三島、横浜関係)によつて同日午後の降水量及び降水時間を見るに三島では一七時から一八時の間に0.0ミリ、横浜では一四時から一五時の間に0.0ミリあるだけであるから、これら資料は請求人の「ひどい雨」という供述に相反することこそあれ、その補強となるものではない。

所論は、仙石原測候所の昭和二九年三月月表写及び請求人の小鍛治格宛の手紙写で昭和二九年三月一三日の仙石原における天気気温から請求人が同日箱根山中で雪みぞれに会い寒かつたことを立証すると主張しており、十分これを肯認できると考えるが、三月一三日は本件犯行日以後しかも請求人が大磯警察署で取調べられた以後のことであるから、請求人のアリバイ主張立証という面では取り上げて加える程のものではないと考える。

以上、気象面からの検討によつても右証拠も請求人の供述する天候状況と調和しないものが散見されこそすれ、アリバイという面で特に補強する程のものはないと認められる。

3、ここで、再び前記臨床心理学研究一四巻二号中の「赤堀裁判における精神鑑定書批判」なる論文を検討する。同「論文」において「その人の生活にとつて重要な経験はより良く記憶される」「本人にとつて強烈な経験は忘れ難い」「その場における必要性が記憶を呼び起す」という記憶学説の基本原則なるものを掲げ、原一審第一〇回公判における請求人の東京にいる間に雪が一寸降つたという供述を採り上げた後、「浮浪生活者にとつて歩いた道、寝泊りした場所、天候(特に風雨や雪、寒さ暑さ等)は生死にも関わる重大な関心事であり、それに関する経験は記憶に残りやすい。したがつて判決における三月七日の上野での雪、三月一二日の大磯署の近くでたき火中にボヤを出し、大磯署で取調べられたことは、強い印象を残し回想の必要を呼び起されれば想起されやすい経験であつたと思われる。」としている。このうち大磯署の近くでボヤを出し大磯署で取調べられたことは証拠上明らかであり、原確定判決も認めているところであるから問題はない。問題は、三月七日に上野で雪に合つたか否かである。原確定判決は「被告人(=請求人)のような智能の程度の人間が、二年余を経過した昭和三一年九月一一日の一二回公判近くになつて、天候という通常ありふれた事象についての記憶をしだいに明確にしたということはただちに首肯し得ないところである。」とする。この点は右「論文」の考えと抵触するものがあり、右論文が記憶学説の基本原則なるものを掲げて論述するところは傾聴させられるものがある。(なお、鑑定人林暲、同鈴木喬作成の鑑定書も、この点について、右「論文」の考えと抵触するものを含んでいない。)しかも、原一審第一〇回公判において、弁護人の「家を出てから上野に行くまでの間の天気具合はどうであつたか。」との問に対し、請求人が一旦「それは覚えておりません。」と答えながら、同公判で後に、裁判長の「東京にいる間に降られたことはなかつたか。」という問に対し、「雨に降られたことはないが雪が一寸降つたかも知れません。」と答えているのは、裁判長の質問に対し、わざわざ雪と答えているだけにまた月間降雪の日の数の少いこと前記考察のとおりであるだけに、注目すべきところである。請求人の心中どこかに、在京中雪に降られた印象が残つていた証左であるように思われる。しかし、これをもつて直ちに、右論文のいうように昭和二九年三月六日及び七日に上野で雪にあつたという事実を述べたとするには飛躍がある。もつとも、請求人は原審第一二回公判では「平塚から切符を買つて出る時、それから上野に着いた時、雪が降つており、七日の朝まで雪は降つておりました。積るような雪でなく直ぐ融けてしまいました。」(原記録一三四九丁)と供述している。当裁判所の請求人本人尋問の際の供述も同旨である。また、昭和五一年一一月一一日消印の前記小鍛治格宛の手紙写では「六日昼前頃から曇り、雪が降り出し、雪は七日朝夜明け頃にはやんだ。(六日)午後一時過ぎ、平塚駅から湘南電車に乗り東京で一旦下り省線電車で上竪駅で下車雪はずつと降つておりました。町の中は雪が沢山降り積り銀世界でした。」と記している。また、請求人の供述によれば三月六日に平塚駅から乗車するまでに、朝小田原市酒勾地区内を出てから平塚駅まで歩いているから(昭和五一年一一月三〇日付再審請求理由補充並に意見書によると、弁護人は、請求人が朝右小田原市酒勾地区内を出て五時間位でつまり昼頃平塚駅に着き、昼頃(二時頃)平塚を出た、と推定している。」その間に午前中に降り出したという雪(原記録一六六八丁、なお、後記参照)に降られた記憶が原一審第一〇回公判当時にいくらかはあつても良さそうに思われる。しかるに、右第一〇回公判ではこの点に全くふれた供述がない。請求人は当裁判所の請求本人尋問において、「平塚市内へ入る少し手前あたりから白いものがぱらぱら降つて来た。」と述べている。もし、請求人が原一審第一〇回公判においていうところが、三月六日乃至七日頃の雪の記憶であり、第一二回公判で述べるとおりの状況であつたとすれば、右「論文」でいう記憶の原則よりみても、第一〇回公判における雪に関する供述は、もつと違つた言い方の供述になりそうに思われる。さらに決定的なことには、前記観測原簿拡大複写(東京関係分)天気概況の表によると、昭和二九年三月六日午後一時から午後八時までは降雪がなく(但し午後七時頃は雨)、請求人が第一〇公判で述べている上野へ着いた時間である午後四時過ぎ頃は曇である(記号については原記録一六七九丁、一八六一丁に明らかである。)なお、同観測原簿拡大複写(東京関係分)の降水量の表からみても一五時(一六時とあるは明らかに誤記)から一八時まで降水量はない。気象庁は千代田区大手町所在であるから当日の上野の天候が右観測原簿の記載と相違しているとは考えられない。これは明らかに請求人の「上野へ着いた時雪であり翌日の朝まで降つていた。」との供述と合致しない。また、平塚方面についてみても原一審で取調べられた網代測候所長の「気象状況について(回答)」と横浜測候所長作成の「気象状況照会について(回答)」を対比検討するに、網代において右三月六日午前四時五二分から雪あられや雪が午前一一時五〇分まで続いており一方横浜においても午前五時四〇分から同五時五五分まで雪あられが断続し、その後一三時一〇分まで雪となつていて、両地点の間にある小田原、平塚方面でも午前早朝からずつと雪あられや雪が続いていたと推認され、請求人のいうような平塚市内へ入る少し手前あたりから白いものがぱらぱら降つてきたという状況とは到底合致しないのである。これは三月六日に雪にあつたという請求人の供述がその正しい記憶に基いたものでないことを示している。右「論文」が記憶に関する原則に基づき請求人の「雪」に関する記憶の重要さを強調すれば強調する程、請求人の、「三月六日に小田原を出て平塚駅から上野へ来た。」というアリバイ主張に対する疑惑を浮き彫りにする結果になるのである。少くとも請求人が三月六日に小田原を出て平塚駅から上野へ来たとしこれを当時の請求人の行動認定のより所とすることはできなくなつたのである。ここに請求人の主張は、アリバイとして根底から揺がされてしまつたといわざるを得ない。このようにみてくると、原一審第一〇回公判における請求人の雪に関する供述は、むしろ、原一審における証人赤堀一雄の供述(原記録四二四丁)によつて認められるように、請求人はそれまでにも上京しており(請求人は昭和二九年二月一〇日頃上京し往復汽車を使用して二月一〇日過ぎに島田市へ戻つてきたようにいうが、((原記録一一七八丁))右赤堀一雄証人の請求人帰着時の服装等に関する供述が甚だ具体的であることよりみて((原記録四三八丁))請求人は同年二月二〇日頃帰宅したものとみるのが至当である。)、その間に雪にあつた(現に観測原簿拡大複写((東京関係分))によつても昭和二九年二月一四日降雪の記載がある。)記憶が右第一〇回公判におけるような供述になつたものと解する余地が大いにある。また、或は前記観測原簿拡大複写(東京関係分)によると、昭和二九年三月四日一九時より同月五日一時の間に降雪のあつたことが記されているところなどよりみて、原二審判決のような見方をして同月四日頃上京し同月六、七日頃島田市へ帰つたものとして、その間における雪の記憶が第一〇回公判におけるような供述になつたという見方ができないわけのものでもない。いずれにしても同年三月六日小田原を出て平塚から電車で上京し上野に来て前日雪にあつたという請求人の供述は他に裏打ちする証拠がない以上、これをそのまま採用して直ちにそのとおりであるとすることができない。

以上の次第で原確定判決と理由は必らずしも同じでないけれども原一審第一〇回公判における雪に関する供述を、直ちに、同一二回公判におけるそれのように、右三月六日、七日に請求人が上野へ来てそこで雪にあつたことを述べたものと結びつけるべきではないと考える。かくして、請求人の上京中の雪に関する記憶もアリバイを認めるための日時特定の上では無力である。それだけにとどまらず降雪時間と符合しない供述であることは請求人のアリバイに関する供述全体に疑惑を投げかける結果ともなつているのである。さらに請求人のアリバイに関する供述を右「論文」を参照しながら検討してみても、上野で映画「濡髪の権八」の看板を見た記憶があるという点についても、たとえ、請求人が映画好きであつたとしても、如何してこのような軽い体験に属すると考えられる事実を俳優名まで記憶していたか奇畏という他はない。右論文でも「犯行」に比較してではあるが、「体験の重さからみて比較にならないほど軽い弱い映画についての記憶」と表現している。しかも、請求人はこれを思い出した経緯について、「警察で『お前が三月一〇日前後には何所にいたか』と聞かれて思い出した。向うが質問したのでははあ高橋貞二の濡れ髪の権八だつたなあと思いました。」と供述し(原記録一七四九丁)、捜査段階で既に思い出していたとしている。しかし、それを捜査官に全く述べていない。(原記録一七四四丁)一方、その頃の天気については裁判所の方から質問があつたので、だんだんに考えてみて永い間考えていると、少しづつ頭にでてきました、と供述し(原記録一七四九、一七五〇丁)、原審第一〇回公判で思い出したように供述している。上野でその日屑拾いしたことまで記憶していて、(原記録一一二一丁)より記憶されていてよい筈の雪に降られた記憶の方が曖昧であつて体験の軽い筈の映画の看板の方をより記憶していたというのは、右「論文」の思考方法よりみるとおかしなことであつて、これらの点に関する請求人の供述が果して真実記憶に基づくものであるか、否か、右「論文」は寧ろこれに疑問を投じているともみられるのである。原確定判決も「仮に濡髪の権八の映画を見たとしても……」という微妙な表現を用いているのである。請求人の雪以外の天候に関する供述(風雨、寒さ、暑さ等)からその日時を特定し得るようなものがないこと等2で既述のとおりである。況して、請求人の歩いた道、寝泊りした場所等に関する供述については、正に、その供述が真実記憶通り述べられているか、否か、が問題であり、右「論文」にも請求人のこの点に関する供述が真実であるとまでは記載していないのである。

このようにみてくると、右「論文」も請求人のアリバイに関する供述全体としてみると、これを補強するというよりも、寧ろ、疑問を投影するものとの感が深いのである。

4、最後に、パンくずをもらつたと思われる家付近の写真二葉の写について、これも「新証拠」であるとは考えるが所論によつても、これは請求人が昭和二九年三月一〇日北品川の右写真の付近を通つたと主張しているらしいその場所の写真であるというに過ぎず、昭和二九年三月一〇日の請求人が同所にいたのではないかと思わしめるものは他に何もないから、採用の限りでない。

(三)  農林省茶業試験場作成の昭和二九年二月及び三月気象表写について、

右各気象表はその内容よりみて「新証拠」であると認められる。そして右各気象表及び当裁判所が取調べた証人簗瀬好充の尋問調書によつて、右気象表には昭和二九年三月七日午前九時の農林省茶業試験場の観測結果として、天気は曇前日である同月六日の午前九時より同月七日の午前九時までの間に21.5ミリの雨雪量があり、同時以後翌八日午前九時まで雨雪量のなかつた旨の記載があることは明らかである。この点は確に所論もいうように、松浦武志が請求人と会つたのが、昭和二九年三月七日とすると、同人の証言する天候状況と合致しない。即ち、同人は原審で証人として「その日七時半頃起きたが、その時は百姓ができないくらいかなり降つていた。一一時頃雨もだいぶ小降りになつたので初倉に行つた。一時頃帰る時にはそんなに降つていず傘をさすのが面倒くさいぐらいだつた。」と述べており、降雨状況よりみて右気象表の記載と符合しない。しかし、右気象表の記載も右昭和二九年三月七日午前零時から午前九時までの間に降雨がなかつたとするものではない。原一審で取調べられた昭和三二年五月一六日付御前崎測候所長作成の「気象の照会についての回答」と題する書面と、同じく昭和三二年五月一四日付静岡測候所長作成の「気象状況調査についての回答」、並びに、弁護人が昭和五一年一一月三〇日付提出した「再審請求理由補充並に意見書」添付の観測原簿の拡大複写書面(静岡関係)昭和二九年三月の降水量の表を比較検討すると、静岡と御前崎の降雨状況が雷雨やしゆう雨のようなところを除いて、概ね、似通つていることに気づくのである。とすると、御前崎町と静岡市の中間にある金谷町所在の農林省茶業試験場においても昭和二九年三月七日午前零時から午前九時までの間の降雨を肯定した方が自然な読み方であると思われる。兎も角右気象表も右三月七日には始め雨で後に曇になつたと読めるわけで、とすると、証人松浦武志の「同人が請求人と会つた日の天候は始め雨で後に小降りになり傘もいらない程になつた」という大略の天候状況に関する供述とは符合していることになるのである。してみると、掲記の農林省茶業試験場の気象表も、松浦武志が請求人に会つたのが昭和二九年三月七日頃ではない、と認定できる程の証拠ではない。ただ、それにしても、右気象表は少くとも午前九時には雨が上つていたとの記載であるから、松浦武志証言の一一時頃雨もだいぶ小降りになり一時頃にはそんなに降つてはいなかつた。」との供述と時間的に若干ズレのあることは肯定しなければならない。この時間的ズレは、或は、測候所とは違つて一日一回しか天気を観測しない茶業試験場側に問題があつたのではないかと思われ、(前記資料によると、御前崎、静岡とも午前一一時ころ雨が上つたことになつている)その理由は定かでないけれども、前記のように大略の降雨状況を否定する程のものではないので、右気象表の存在、さらにはこれを説明する簗瀬証人の証言も、松浦武志が請求人に合つて自転車に乗せてやつたのが昭和二九年三月七日であるとする原確定判決の見方を誤りであるとする明らかな証拠であるとまではいえないけれども、原一審における松浦武志証言に対する原確定判決の見方を動揺せしめているとは言い得ると思われる。

さらに、弁護人は、昭和五一年七月二九日付書面をもつて事実の取調べとして、「松浦武志が昭和二九年三月七日頃桜井方を訪問し、面会した事実のないことを立証趣旨として証人桜井弘昭の取調べを求めた。しかしながら既にその名は原一審における証人松浦武志の証言の中にも表われており、そこにおいては正に昭和二九年三月七日頃松浦武志が桜井弘昭に会つた事実が語られているのである。桜井弘昭を証人として取調べる意味は当時から明らかであつたのである。証人松浦武志の証言の信憑力を問うためならば、原判決の確定するまでの間に、弁護人らの訴訟準備活動として松井弘昭に面接するなりしてこの点を確め得た筈である。証人申請もできた筈である。しかるに何故に当再審請求手続に至つてこのような申立をするのか明らかでない。「新たな証拠の発見」としての申立ならば、その点を明確にして申立るべきであろう。なお、桜井弘昭を証人として取調べることによつて所論主張のような供述が得られ、かりにその結果原一審における松浦武志の証言が措信できないということになつても、さらにはそもそも松浦武志の証言がなくても、なお請求人のアリバイ主張は採用し難いこと次に記すとおりである。桜井弘昭は、証人として調べるまでもなく「明白な証拠」とはいい難いし事実の取調べとして同人の証人尋問もしなかつた所以である。

以上請求人のアリバイの主張を裏づける証拠として本再審請求事件に提出された証拠、また、同様原一審における松浦武志の証言の信憑力を否定する証拠として提出された証拠を検討してきた。そして、「外川神社」の発見も特定の日時に請求人がそこにいたという点を明らかにしないし、天候面からも請求人のアリバイに関する供述を裏打ちせず、寧ろ、これと調和しないものが散見されることも分つた。昭和二九年三月六日小田原市酒勾地区内から平塚駅へ来て上京し上野へ来て当日雪にあつたという請求人の供述も弁護人より本再審請求事件に提出された証拠等によつて却つて措信し難くなつたこと上記のとおりであり、三月六日を上京した日時として請求人の行動日時算定の基準とするわけにはいかなくなつた。請求人が目撃したという「濡髪の権八」という映画の看板についても果して請求人がこれを目撃していて記憶していたのか、否か、について大いに疑問のあること既に検討したとおりであるが、仮にこれを請求人が目撃したとしても、これが上映されていたのが昭和二九年三月三日から同月一五日までの間であるから、この間の何時の時点であるかも認定できず、請求人のアリバイ主張という意味で日時特定の基準にすることはできない。上野宝塚劇場の建築工事進捗の状況からみても、請求人が本件犯行の犯人にはなり得ない、或は、これに合理的疑を抱かしめるという意味で請求人が上野にいたとする日時を肯認することもできない。日時の特定として残るところは、請求人が昭和二九年三月三日島田市の家を出て由比駅から荷物を送り返した、ということ以外は、同月一二日夜大磯警察署で取調べられているという日時のみである。しかし、この三月三日に家を出て由比駅へ行つたということは、もち論のこと、三月一二日に大磯警察署で取調べられ、その後に西に向つたという事実も、原確定判決がいうように犯行直後遠隔の地に逃走することもあり得るという犯人の心理や、徒歩のみで行動するわけではない、請求人の浮浪生活中の行動に照し、請求人の本件犯行に対するアリバイとすることはできない。

以上のように請求人のアリバイ主張には昭和二九年三月三日島田市を出て由比駅へ至つて以来、同月一二日大磯警察署で取調べられるまでの間、日時的場所的に特定して直接請求人の所在を裏づけるものはないのであるが、最後に請求人のアリバイの主張それ自体を全体として考察することとする。

原確定判決は幾つかの理由を挙げてこれを措信できないとしている。そのうち、道順(三島―熱海―小田原)が徒歩で東京へ行くための順路といえぬ、という点は、現にそうした道路もあるのであるから、敢てこれを取り上げるまではしないこととする。しかし、この点を除いても、各日の行程に非常な差のあること、特に三月五日の約61.9キロメートルの行程は物貰いしながらの行程として(原記録一一一八丁)到底考えられないこと、その他既に検討した天候面からこれを裏打ちするものがなく寧ろこれと調和しないものが散見されること、特に昭和二九年三月六日の天候について供述するところが気象記録に記されているところと符合しないこと、請求人の記憶の仕方が映画の看板のことを良く記憶していて却つて雪の記憶が曖昧であつたこと等、不自然な点が多く、それに三月三日から三月一三日までの間請求人の供述以外にその所在を裏打ちする証拠がないことも合わせ考えると、請求人を甲野花子に対する本件犯行の犯人であるとする前記「本件有罪証拠」に対比して、請求人のアリバイに関する主張を裏づけるものとして本再審請求事件に提出された証拠中「新証拠」でないとされたものは論外として、その余の証拠を「旧証拠」と総合してみても、アリバイの主張それ自体において「本件犯行」を請求人の犯行と認定するのに合理的疑をいれる余地のある主張であるとは解されない。さらに右請求人のアリバイ主張を積極的に否定する証拠をみるのに、原確定判決が掲げる松浦武志の証言とこれを裏づけるために提出された証拠については、「新証拠」である農林省茶業試験場作成の昭和二九年二月及び三月気象表によつて動揺してきたこと、さらに桜井弘昭の証人調べを未知数のまま残したこと、前記のとおりである。しかし松浦武志の証言の信憑力が動揺し、同人が請求人と会つたのが昭和二九年三月七日であると認められなくなつたところで、昭和二九年三月九日島田市近郊で請求人に会つたという原一審における証人小山睦子の供述及びこれを裏づけるために提出された証拠は厳然として存在し、証拠上、これに関する原一審の心証を変えるべき特段の事情は見当らないのである。その他にも同日ごろ、請求人を見かけたという原一審における証人粥川義昭の供述及び同人の検察官に対する供述調書もあるのである。それにそもそも前記「本件有罪証拠」そのものがあり、これこそ正に請求人が犯時犯行地に所在していたことを強力に主張している証拠である。

このようにみてくると、「新証拠」によつてたとえ松浦武志の証言の信憑力が動揺し同人が請求人と会つたのが昭和二九年三月七日であると認められなくなつたところで、なお、請求人のアリバイ主張を肯認するに由がなく、上記に検討した当再審請求事件に提出されたアリバイ関係の証拠(ただし「新証拠」でないとされたものを除く)によつても、甲野花子に対する本件犯行の犯人は請求人である、という原確定判決の認定には変更をきたさないのである。これまた、「新証拠」でないとされないものでも、請求人に無罪を言渡すべき「明白な証拠」であるとはいえないものばかりである。

なお弁護人は、請求人の昭和二九年五月二四日から同月二七日の間に作成された司法警察職員に対する供述調書原一審における相田警部の証言に出ている本件犯罪の捜査経過を記録した捜査日誌、上野署などに対する照会文書の提出命令を求めている。請求人が取調べを受けた当初東京方面に行つていたとアリバイを述べていたことは、これまで取調べられた「旧証拠」によつて十分認められるが取調べの当初そのようなアリバイを請求人が供述していてもなお、本件再審請求事件においてアリバイ関係の再審理由についての判断は前記のとおりであることに変りないので、右各供述調書に対する提出命令を発しなかつた。また、本件に対する本件再審請求事件の審理に、所要の捜査経過については、第一審における証人相田兵市の供述等によつて明らかであり、請求人のアリバイ主張の根底は、上野で浮浪生活をしていたという事実であるから、浮浪生活の特性に鑑み、上野署に対する照会の有無、照会の結果を本件再審請求事件の審理上明らかにする必要も認められないので、この点の提出命令も発しなかつた。

以上に、本件再審請求事件に弁護人より提出された証拠を個々的に検討してきたが、これら弁護人より提出された証拠のうち、「新証拠」でないと判断された証拠を除くその余の証拠すべてを合わせて、「旧証拠」と総合し、疑わしきは被告人の利益にの原則を踏まえて検討しても、甲野花子に対する本件犯行の犯人は請求人であるという点に、合理的疑はない、と認められる。

第四(一)  以上によつて、本再審請求事件に弁護人より提出された証拠にもかかわらず、甲野花子に対する本件犯行の犯人が請求人であると認定すべき点に変動のないことが明らかになつた。弁護人より提出された証拠は、「新証拠」でないとされないものでも請求人に無罪を言渡すべき「明白な証拠」ではない。しかし同時に「新鑑定」によつて、請求人の捜査段階における供述調書(勾留質問調書も含むの意)における犯行順序に関する供述には疑わしい点があり、その他犯行内容に関する供述についても、十分吟味すべきであることも明らかになつた。それでは「新鑑定」によつて明らかになつたこのことは、再審開始事由となるか、否かを次に問わねばならない。

(二)  請求人の捜査段階における供述調書中犯行状況を詳細具体的に述べているのは、請求人の司法警察員に対する昭和二九年五月三一日付供述調書と検察官に対する昭和二九年六月一三日付供述調書である。請求人は、右司法警察員に対する供述調書において「私は……その子を……仰向けに倒しました。すると女の子はびつくりして泣きべそをかきましたのでまずいなあと思いましたがどうにもたまらなくなり子供のズロースを下から手を入れて下に引下げました、子供は『おうちへ行きたい、かあちやん』と言つて泣き出しました。私は自分のズボンを下げ、右足はズボンから抜いてその子の上になり、女の子のズロースを片足抜いて股を開かせ余り騒ぐので左手で子供の口を押へ乍ら、自分の大きくなつた陰部を女の子のおまんこにあて右手で持つて押しあて腰を使つてグツと差し入れました。半分位入つたと思います。女の子はもがき乍ら『痛いおかあちやん』と力一杯泣くので左手では押へ切れなくなり、私は構はず腰をつかいましたが、余り暴れるので思う様に出来ず、私はやつきりしておまんこをやめて、足の処にあつた握り拳一つ半位の岩石の先のとがつたのを拾い、腹立ちまぎれに女の子の左胸辺を二三回力一杯尖つた方で殴つて仕舞いました……子供は私が腹立ちの余り石で二〜三回殴ると相当ひどかつたと見え泣くのが止りフーフーと息をし乍ら目をつむり唸つていました。私は気持が悪くなり『一そ殺して仕舞へ』と思い両手を女の子の首にあて力一杯押へつけました、そして四五分して手を離すともうぐつたりしていました……」と供述している。検察官に対する右六月一三日付供述調書も石を拾つた状況等が、より詳細になつている他、右と同旨の供述をしている。記録中の請求人の捜査段階における供述調書中には、犯行について、これ以上に出る供述が記載されたものは他にない。

請求人が甲野花子に対する本件犯行の犯人と認められること前記のとおりであり、さらに、甲野花子が扼頸されて死亡していたことも第二、(二)(A)のとおり認定できる。とすると、これに符合する請求人の「両手を女の子(甲野花子のこと)の首にあて力一杯押えつけた」という供述が信憑力の極めて高いこというまでもない。また、本件「石」発見の経緯状況や右同女の左胸部損傷の状況、さらに提出された「新鑑定」によつても右「石」で甲野花子の左胸部を殴打した事実を否定できないこと第三、二(I)(二)で検討したとおりであることよりみて、これに符合する請求人の「右『石』で女の子の左胸辺を殴つた」という供述も信憑できないとすることはできない。ただし、それは、第三、二(I)(三)に見たとおり扼頸以後であるのでないかという合理的疑がある。また、第三、二(I)(一)で検討したとおり、姦淫したという点については、弁護人より提出された「新証拠」や第二、(二)(A)の証拠からは直接に判定できるだけのものはない。右証拠だけからでは、陰茎以外の鈍器を陰部にそう入されただけであつたかも分らないが陰茎をそう入され姦淫された可能性を否定できないし、むしろその可能性の方が大であると考えられる。しかし快林寺よりわざわざ一面識もない幼女甲野花子を連れ出し、(それが請求人であることは、甲野花子に対する犯人が請求人であると認められること前記のとおりであるうえに、第二、(二)(C1)(C2)(E)の証拠を総合して十分認めることができる。)遠方の人気のない山中へ連行していること、請求人が当時満二四才で同人に性体験等のあること、第二、(二)(A)の証拠で認められる甲野花子の死体の陰部の状況等よりみて、請求人が右各供述調書において述べているとおり、当初より同女を姦淫しようと考え、快林寺境内より同女を連れ出し犯行地まで連行したことは、疑ないところというべきである。とすると、甲野花子の死体の陰部の状況よりみて、他に特段の事情の認められない以上やはり請求人が同女の陰部に陰茎を半分程そう入した、という請求人の前記捜査官に対する各供述調書における供述は、措信できるものと考える。ただ「新鑑定」よりみて、そのそう入した時期は同女の死戦期以後ではないか、という合理的疑がある。

かくして、請求人の捜査段階における供述を十分吟味し、弁護人より本再審請求事件に提出された証拠(ただし「新証拠」でないとされたものを除く)及び「旧証拠」を総合して検討してみても、原確定判決が認定した「請求人が甲野花子を姦淫しようと考え犯行地へ連行した事実」「請求人が同女の頸部を強く絞めつけ右扼頸により同女を窒息死させた事実」「請求人が同女の陰部に自己の陰茎をそう入した事実」及び「請求人が本件『石』を右手に持つて同女の胸部を数回強打した事実」、以上の各事実それ自体については、いずれも合理的疑がでてきているわけではないのである。ただ「新鑑定」によつてその犯行の順序は、所論もいうとおり、同女を犯行地へ連行したうえで、先づ同女の頸部を両手で強く絞めつけ、その後に同女の陰部に自己の陰茎をそう入したり、本件「石」で同女の胸部を数回強打したりした、という順序でないか、しかも、陰茎の陰部そう入は死戦期以後でないか、という合理的疑がでてきたというべきである。この点原判決の事実認定は、犯行の順序について、客観的事実と符合しない点があるのではないかと考える。

(三)  右犯行順序の変更は再審開始の事由となるであろうか。請求人が甲野花子の頸部を両手で扼し、しかも、その左胸部を本件「石」で殴打し、さらにその同女を放置して逃走していることよりみて、請求人に殺意のあつたことは否定し難い。また、それまで全く無関係であつた当時六才三ケ月の同女を勝手に快林寺から連れ出し人気のない犯行地の山林内に連行し、そのあげく同女を姦淫していることよりみても同女を快林寺から連れ出した当初より請求人に姦淫の意思のあつたことも証拠上十分認められるところであり、疑がない。してみると自ら甲野花子を扼頸して窒息死せしめた請求人は、先ず、殺人罪の刑責を免れ難いこと原確定判決と同様である。

次に、請求人が同女を姦淫したのが死戦期以後と見るべきこと既に記したとおりである、しかし、そもそも請求人は当初から姦淫の意図で同女を連れ出し扼頸した上自己の陰茎を同女の陰部にそう入しているのである。本件犯行は全体として、姦淫の意図で貫かれており、扼頸もまた、姦淫の手段としたものと通常認めるべき状況にある。特に、相手が抵抗力のない幼女であり、特段の事情も他に見当らないから、なおさらである。とすると原確定判決の事実認定と異つて、扼頸の方が先で、陰茎の同女の陰部へのそう入が死戦期中であれば刑法一八一条(一七七条)として、同女の死亡後であれば同法一八一条(一七九条、一七七条)として、いずれにしても強姦致死罪の刑責を負うべきことになる。その法定刑は、無期又は三年以上の懲役であつて原確定判決の強姦致傷罪と異らない。もつとも原確定判決は強姦致傷罪と殺人罪の両者は刑法四五条前段の併合罪であるとしているところ、前記のように殺人罪と強姦致死罪ということになると、刑法五四条一項前段の観念的競合という関係になると解される。しかし、この罪数関係の変更は別に原確定判決の認めた罪より軽い罪を認めるべき場合に当るということになるのではない。所詮、請求人に対し、無罪を言い渡したり、原確定判決において認めた罪より軽い罪を認めるべき明らかな場合である、とはいえないのである。

第五なお、弁護人は、これまでに言及したもの以外にも事実の取調べの請求をしているが、本件再審請求事件の事実の取調べとしては、その必要性の認められないこと明らかなので、これを行わないこととし、以上のとおり本件再審請求は、その理由がないので、刑事訴訟法四四七条一項によりこれを棄却することとする。

付言するに、検察官は昭和五二年三月四日付意見陳述書(補充)と題する書面を提出してきた。しかしながら、当裁判所は、昭和五一年一〇月二一日、「本件に関する事実の取調べをすべて終える」旨決定、告知するとともに、同日付で昭和五一年一一月三〇日までに意見を出すよう求意見し、検察官より昭和五一年一一月二五日に意見提出期限を同年一二月一〇日まで延期されるよう求めてきたので、その希望通りこれを許可し、同年一二月一〇日付で検察官より意見陳述書の提出を得ていたのであるが、右意見陳述書の中でもまた、検察官は、「本件犯行の順序、胸部、陰部の創傷が生前のものでないこと、左胸部の創傷が証拠物である石ではできないことに関する請求人提出の各証拠とりわけ前掲の各鑑定書(太田、上田両「新鑑定」をさすものと解される)に対する意見の詳細は、後日あらためて補充して陳述する。」と記載している。しかし、右昭和五一年一二月一〇日付意見書の中で一方的に「後日あらためて補充して意見陳述する。」と記載してあつても、意見提出期限が延期されたことになるものではない。しかも、同年一二月一〇日というのは一旦裁判所が定めた同年一一月三〇日の期限を検察官の希望通りに延期してやつた期限である。

以上の次第で、前記検察官提出の昭和五二年三月四日付意見陳述書(補充)と題する書面は、裁判所の訴訟指揮で定めた意見提出期限後のものであるし、一切の事情よりみて職権で採り上げることもせず、本決定に際し、全く考慮の対象としなかつた。

よつて、主文のとおり決定する。

(伊東正七郎 人見泰碩 渡邊壯)

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